熱い。
腹の底から、焼けるような激痛が蘇る。
ああ、これを知っている。前世でオレの人生を終わらせた、あの痛みだ。
薄れゆく意識の中、必死に目を開ける。
オレを刺した男の顔を、この目に焼き付けてやる。そう思って見上げた視界に映ったのは、見知らぬ男ではなかった。
「……なんで」
絞り出した声は、音にならなかった。
「なんで、お前が……」
そこにいたのは、メイド服に身を包んだ少女。
恐怖に怯えながらも、その奥に意志の強さを感じさせる緑色の瞳。
その手には、オレの血で濡れたナイフが鈍く光っている。
――イオ。
お前が、オレを殺すのか。
「――はっ!?」
全身が跳ねるようにして、オレはベッドから飛び起きた。
心臓が、警鐘のように激しく胸を打ち鳴らしている。ぜえ、ぜえ、と荒い呼吸を繰り返す喉はカラカラに乾き、全身は寝汗でじっとりと濡れていた。最悪の目覚めだ。
まだ、窓の外は暗い。どうやら、今はまだ深夜らしい。
ぼんやりとした頭で周囲を見渡す。
そこは、前世の安アパートとは比較にもならないほど豪華な部屋だった。
高い天井から吊るされた豪奢なシャンデリア。月明かりを浴びて銀色に輝く、天蓋付きの巨大なベッド。壁には美しい風景画が飾られ、足元の絨毯は足を沈めるほどに柔らかい。
リンドベルク公爵家の次期当主、カイゼルの部屋だ。紛れもない、今のオレの現実。
だが、その豪華な内装の中で、ひどく異質なものが二つあった。
重厚な板材で作られた扉と、大きなガラスがはめ込まれた窓。
そのどちらもが、内側から無数の木の板でめちゃくちゃに打ち付けられ、頑丈な釘で厳重に封鎖されていた。まるで、何か得体の知れない獣の侵入を、内側から必死に防いでいるかのように。
オレはベッドから這い出すと、慎重にそのバリケードを確認して回る。
木の板にこじ開けようとした跡はない。釘が緩んでいる様子もない。
誰かが、この部屋に侵入しようとした形跡は、どこにもなかった。
「……ふぅ」
安堵のため息をつくと同時に、どうしようもない絶望感が押し寄せてくる。
これだ。この有様だ。
この様子じゃ、おちおち寝ることすらできやしない。
今日の悪夢はイオだった。
だが、オレを殺す可能性があるのは彼女だけじゃない。
ゲームの記憶を辿れば、カイゼルに恨みを抱く人間は山ほどいる。金で雇ったはずの部下、権力闘争で蹴落としたライバル貴族、理不尽に虐げられた平民……。
いつ、誰が、この命を狙ってきてもおかしくない。そんな地獄のような日々が、これから始まるのだ。
恐怖で、奥歯がガチガチと鳴る。
このまま怯えながら、破滅の時を待つのか?
前世で裏切られ、今世でもまた裏切られて、惨めに殺されるのをただ待つだけなのか?
――冗談じゃない。
恐怖に打ち勝つ方法は、一つしかない。
誰にも殺されないほど、誰にも裏切られないほど、圧倒的に強くなることだ。
そうだ、オレは強くなる。
この恐怖をねじ伏せるために。そして、二度と誰にも理不尽に人生を終わらせられないために。
冷静になれ。まずは現状を把握するんだ。
そう、今のオレはまだ9歳だ。
ゲームの物語が本格的に始まるのは、主人公たちと共に王立魔術学院へ入学する15歳の時。
そこが、あらゆる破滅ルートが交差し、牙を剥く運命の転換点。
そこまで、あと6年。
だが、安心はできない。
カイゼル・フォン・リンドベルクは、あまりのヘイトの高さから、学院入学前に暗殺されるサブイベント的な死亡ルートも無数に存在する、正真正銘の嫌われ者なのだ。油断は一日たりともできない。
ただ、希望がないわけじゃない。
このカイゼルという男は、リンドベルク公爵家の血筋から、本来は王国でも指折りの圧倒的な魔力を秘めて生まれてきている。
順当に努力さえすれば、いずれ誰にも負けない最強の魔法使いになれるはずだった。
――そう、「努力さえすれば」、だ。
原作のカイゼルは、その恵まれた才能に鼻をかけ、驕り高ぶり、一切の努力を怠った。結果、その有り余る魔力は宝の持ち腐れとなり、ろくに魔法も使えないまま、ただプライドだけが高いだけの凡人に成り下がった。
だからこそ、あっさりと殺されたのだ。
オレは、そんな轍は踏まない。
「……やってやる」
拳を、強く、強く握りしめる。
努力なら、知っている。
前世で、死ぬほどやった。同期が遊んでいる間も、寝る間を惜しんで働いた。
それが報われなかったのは、努力の方向性を間違えたからだ。会社や上司なんていう、信じるに値しないものを信じたオレが馬鹿だった。
だが、今度は違う。
努力のすべてを、オレ自身のために注ぎ込む。
この身一つを鍛え上げ、魔法を極め、誰にも屈しない力を手に入れるために。
死ぬほど努力して、あらゆる死亡フラグをへし折ってやる。