บท 1: 婚約破棄。完璧な世界からの追放
ザザッ。
不協和音が闇に響いた。
崩れかけた古代の召喚陣が、青白い光を明滅させている。
美しかった幾何学模様は歪み、文字は滲み、痙攣するように揺らいでいた。
「……え？」
俺の不完全な魔力が、完璧な術式を汚染していく。
空中に、血文字のような警告が浮かび上がった。
【ERROR】
【SYSTEM FAILURE】
【DELETE】
「嘘だろ……」
光は急速に失われ、召喚陣はまるで壊れた機械のように沈黙した。
俺は膝を折り、崩れ落ちる。
——やはり駄目か。
最後の希望すら、この手で壊してしまった。
「俺は……何をやっても駄目なんだ……」
涙が頬を伝う。
スライムのスミオが心配そうに寄り添ってくれるが、もう立ち上がる気力はなかった。
絶望に身を委ね、目を閉じかけた、その時——
まばゆい光が瞼を突き破った。
虹色の輝きが、崩壊したはずの陣の中心から噴き上がる。
その美しさは、俺の絶望とは真逆の、完璧な輝きだった。
「そんな……召喚陣は壊れたはずなのに……」
光が収束し、煙の中に人影が立つ。
プラチナブロンドの髪。宝石のような瞳。
まるで絵画から抜け出したかのような、美しい少女——。
その瞬間、彼女の瞳に虹色のノイズが走った。
「……見つけたわ」
鈴のように澄んだ声が響く。
「私のマスター！」
——どうして俺なんかが。
その疑問と共に、俺の意識は一気に過去へと引き戻された。
王都の大広間は、まさに黄金の海だった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、無数の光を散らしている。
壁一面の金銀装飾が、その光を受けてキラキラと輝いていた。
楽団の奏でる音楽が甘く響き、蜜酒と香水の匂いが鼻をくすぐる。
その完璧な光景の中心に、俺——ユウキ・レイフォードは立っていた。
数百の貴族たちが織りなす笑い声。
傾けられるワイングラスの音。
全部が俺への賛辞に聞こえる。
利用されるのも悪くない——それは力がある証拠だから。
隣には、この世界で最も完璧とされる第一王女、リリアーナ・フォン・アルカディア。
プラチナの髪が宝石のように輝いている。
青い瞳は澄み切った湖面を思わせる美しさだ。
「素晴らしい夜会ですね、ユウキ様」
リリアーナが俺の腕に軽く手を添える。
その優雅な仕草に、会場全体がうっとりとしたため息を漏らした。
「あなたがいてくれるから、私はこんなにも幸せです」
彼女の声は春風のように温かい。
慈愛に満ちた微笑みは聖母のような神々しさを湛えていた。
俺は確信していた。
この完璧な世界で、俺もまた完璧な人生を歩んでいる、と。
周囲から聞こえる羨望の声が、その確信を更に強くしていく。
「王女殿下の婚約者とは、なんと幸運な方でしょう」
「レイフォード家の血筋、さすがは名門ですね」
「お二人の結婚式が今から楽しみですわ」
俺は誇らしさで胸がいっぱいになっていた。
「ユウキ様」リリアーナが振り返る。
「そろそろ『神の御心』を伺う時間ですわ」
神の御心——この世界を統べる神が定めた、俺たちの未来を占う神聖な儀式。
同時に、俺のジョブランクを公表する重要な瞬間でもあった。
今夜が俺の完璧さを世界に証明する記念すべき瞬間になる。
そう信じて疑わなかった。
壇上に上がった瞬間、空気が劇的に変わった。
足音が大理石に響く。
リリアーナの白い手が俺を運命へと導いていく。
数百の視線が矢のように突き刺さる。
その重圧で背筋が緊張した。
しかし、それは心地よい緊張感だった。
主役としての誇らしさを感じさせる、期待に満ちた空気。
空中で、神の秩序魔法陣がゆっくりと組み上がり始める。
青白い光の線が空間に完璧な幾何学模様を刻む。
まるで神々の言語が刻まれているようだった。
その美しさに会場からも感嘆の声が漏れる。
「始めましょう」
リリアーナの声が水晶のように澄んで響く。
俺の心は期待で躍っていた。
きっと俺はSランクか、それに準ずる高位のジョブを授かるに違いない。
しかし——魔法陣が俺に触れた瞬間、世界が狂った。
ザザッ。
まるで美しい音楽にノイズが混入したような、不協和音。
「……おかしいわ」
リリアーナの完璧な表情に、初めて困惑が浮かんだ。
魔法陣の光が不安定に明滅し始める。
美しかった幾何学模様が歪み、まるで壊れかけた機械のように痙攣している。
次の瞬間、空中に巨大なシステムメッセージが血文字のように浮かび上がった。
【神託】
ユウキ・レイフォード
ジョブ：テイマー
ランク：F（最下級）
習得スキル：
・テイム（召喚獣契約）
・デバフ（能力阻害）
世界が止まった。
時間が、空気が、音が、すべてが凍り付いた。
会場が墓場のような静寂に包まれる。
「……は？」
誰かが小さく呟いた。
その声が、まるで死神の宣告のように静寂を破る。
そして——地獄が始まった。
「テイマー？」
「Fランク？」
「最弱ジョブじゃないか！」
ざわめきが津波のように押し寄せる。
それは瞬く間に嘲笑の嵐へと変わった。
俺の体がぐらつく。
胃がひっくり返り、膝がガクガク震えた。
頭が真っ白になって、何も考えられない。
テイマー。
この世界で最も軽蔑される、最弱のジョブ。
心の奥で必死に叫んでいる。
『嘘だ』『間違いだ』『俺はもっと特別なはずだった』
でも、その言い訳が情けなくて、余計に惨めになった。
「なぜ……」
やっと絞り出した声がかすれる。
「なぜ俺が……」
リリアーナが俺を見上げた。
その瞳に浮かんでいるのは、もはや愛情でも失望でもない。
それは完全な無関心——まるで壊れた道具を見るような、冷たい視線だった。
先ほどまで温かく手を握ってくれていた彼女の指が、氷のように冷たくなっている。
胸が引き裂かれるような痛みを感じる。
同時に、心の奥底で『仕方ない』と納得している醜い自分がいた。
その現実が、毒のように俺の心を蝕む。
リリアーナの声が氷河のように冷たく響く。
「申し訳ございません、皆様」
「——私、リリアーナ・フォン・アルカディアは、ユウキ・レイフォードとの婚約を、ここに破棄いたします」
雷に打たれたような衝撃が俺を襲った。
世界が傾き、足元が崩れ落ちていくような感覚。
「神の御心に背く『バグ』は、私の隣にいる資格がございません」
バグ。
リリアーナが俺を、そう呼んだ。
完璧な世界に紛れ込んだ不純物。
それが俺の正体だった。
嘲笑が四方八方から押し寄せてくる。
それは様々な色を持った悪意の嵐だった。
「役立たず！」
「貴族の恥だ！」
笑い声と罵声が入り混じり、広間が地獄に変わった。
俺は何も言えなかった。
足は鉛のように重く、声は完全に失われていた。
ただ、その場で崩れ落ちそうになる自分を必死に支えるので精一杯だった。
……俺は、この世界の物語から最初から外れていたのかもしれない。
嘲笑と蔑みの視線に押し出されるように、俺は宴を後にした。
夜風に晒されると、完璧な未来がひとつ残らず砕け散っているのを悟った。
昨日の惨状は瞬く間に広がった。
翌朝には学園からの退学通達が届く。
短い文面に「不適格」の二文字が刻まれていた。
同時に、実家からも冷たい沙汰が下った。
屋敷に戻ると、玄関に木箱が置かれていた。
木箱ひとつで、人生が片付いてしまった。
畳み皺の残る制服。
端が擦れた筆記具。
塗料の剥げた子どもの頃の木剣。
使用人たちは視線を合わせなかった。
受領印を押す手は素早かったが、目は俺の肩越しの空間を見ていた。
書斎には父がいた。
「……聞いたぞ」
言葉が落ちるまでの数秒が、数年に感じられた。
「お前のようなFランクは、我々のシナリオには不要だ」
刃でも抱擁でもなく、"無"だけが落ちてきた。
「生まれた日のことを思い出そうとしたが……思い出せなかった」
窓の外に目をやり、最後の一言だけ僅かに濁らせた。
すぐに戻る。
「家にとって"子"とは、役割にすぎん。お前は私の息子だったが……今はもう、ただの他人だ」
父の声に感情はなかった。
「葬儀に参列するな。親族にも顔を見せるな。レイフォードの名を口にするな」
「名を守るためだ。……わかるな」
喉まで言葉が上がる。
『俺は』『まだ』『違う』
砂になって消えた。
父は書類を片付け、蝋が垂れて封を閉じる。
指先を軽く焼きながら、表情は動かさない。
「部屋の荷はまとめさせた。今夜のうちに門を出ろ。……明日になれば、見物になるぞ」
「……わかりました」
声が自分のものに思えなかった。
膝を折り懇願しそうになる自分を、爪を立てて止める。
扉を出ても、父の姿勢は変わらない。
一度も俺を見なかった。
その事実だけが、心臓をえぐった。
門が閉ざされる音は、父の言葉より確かに俺を追放した。
裏路地を歩きながら、俺は思った。
この完璧な世界に、欠陥品の俺が居る場所などない。
街の明かりが俺を照らす。
通り過ぎる人々の視線が俺に突き刺さる。
「あれ、もしかして……」
「昨日の夜会で婚約破棄された……」
「Fランクの……」
ひそひそ話が聞こえてくる。
俺の恥は、もう街全体に知れ渡っているのだ。
「くそっ……」
俺は拳を握りしめる。
「なぜ俺だけが……」
その時だった。
近くの酒場から、男たちの会話が漏れ聞こえてきた。
「聞いたか？ あの『伝説の召喚陣』の噂を」
俺の足が止まった。
「またバカバカしい作り話だろ」
「嘆きの森の奥にある古代の召喚陣らしい」
「真の絶望を知った者でなければ反応しないとか……」
古代の召喚陣——その響きが、記憶の底から何かを呼び覚ました。
ああ、そうだ。
子供の頃に乳母が語ってくれた古い伝承。
「どんな絶望の淵にいても、真の願いがあれば召喚陣は応えてくれる」
当時は、美しいおとぎ話だと思っていた。
しかし今の俺には、その幻想にすがるしか道がなかった。
まるで溺れる者が藁をも掴むように。
俺以上に絶望を知った人間がいるだろうか？
完璧な世界から追放され、家族からも見放され、愛する人からもバグ呼ばわりされた俺以上に。
「もし、本当に願いが叶うなら……」
俺の呟きが夜風に溶けていく。
遠くで響く笑い声とワイングラスの音が記憶の彼方に消える。
代わりに小さな希望の足音が心の奥で響き始めた。
古代の召喚陣——それが俺に残された、最後の可能性かもしれない。
この絶望が、まさか新たな物語の序章だとは、俺にはまだ知る由もなかった。
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