第2話:偽りの愛情
見知らぬ部屋の天井が視界に入った。白いクロスに小さなシミがひとつ。結衣はゆっくりと身を起こし、枕元に置かれた黄色い付箋に目を向ける。
『二週間後、港で会おう。―一ノ瀬隼人(いちのせはやと)』
昨夜の記憶が蘇った。バーで出会った男性。怜と肩を並べる唯一の人物。この街から逃がしてくれると約束してくれた人。
スマートフォンの画面が光る。怜からの不在着信が九十七件。メッセージも同じくらい溜まっている。指先が震えながらも、電源を切った。
二週間。
それまでは演じ続けなければならない。
――
夕方、自宅のドアを開けると怜が駆け寄ってきた。
「結衣!どこにいたんだ?心配したよ」
彼の瞳には愛情が宿っている。だが、それが唯一でも純粋でもないことを、結衣は知っていた。
「ごめんなさい。友人と会っていて」
「そうか……」
怜の目の下には隈ができている。一晩中眠れなかったのだろう。パソコンの画面には二人の結婚式の写真が表示されていた。幸せそうに微笑む新郎新婦。今となっては、ただの演技にしか見えない。
ダイニングテーブルには豪華な夕食が並んでいた。怜は結衣の椅子を引き、座らせてから自分も席に着く。
「海老、好きだったよね」
怜は慣れた手つきで海老の殻を剥き、結衣の皿に置いた。魚の骨も丁寧に取り除いてくれる。まるで子供の世話をするように。
「ありがとう」
結衣は微笑みを浮かべた。偽りの微笑みを。
「顔色があまり良くないな。病院に行ったほうがいいんじゃないか?」
その瞬間、結衣の箸が止まった。
昨日、病院に行ったことを話したはずだった。アレキシサイミアの診断を受けたことも。なのに怜は覚えていない。
「そうですね。今度行ってみます」
「うん、そうしてくれ。君の体が心配だから」
優しい声。愛情に満ちた表情。すべてが空虚に響いた。
玄関のチャイムが鳴る。家政婦の桜井(さくらい)が弁当箱を置いていく音が聞こえた。結衣はその動きを不審に思いながらも、何も言わなかった。
――
「急な会議が入った。すまない」
食事を終えると、怜は慌ただしく身支度を始めた。桜井が用意した弁当箱を手に取る。
「お疲れさま」
結衣は玄関まで見送った。怜の車が見えなくなってから、キッチンに向かう。
鍋の中を覗くと、ピーナッツ入りの粥が残っていた。
結衣は重度のピーナッツアレルギーを患っている。一口でも食べれば命に関わる。それを怜は知っているはずだった。
いや、知っていた。
これは蛇喰(じゃばみ)魅音の大好物だった。
瞳から光が消えた。すべての希望が、この瞬間に潰えた。
結衣は怜のオフィスに向かい、パソコンを開く。監視アプリのアイコンをクリックした。怜が「安心のため」に設置したという監視カメラ。最初は画面が真っ黒だったが、突然映像が映し出された。
怜の声が聞こえてくる。
「魅音、待たせてすまない」
「私はあなたの正妻なのに、どうしてこんなこそこそしなきゃいけないの?」
女性の声。蛇喰魅音。彼女はカメラに向かって挑発的な視線を向けた。まるで結衣が見ていることを知っているかのように。
「順番って大事だな。もし先に君に出会っていたら……結衣は選ばなかったかもしれない」
その瞬間、結衣の全身から力が抜け落ちた。
七歳の誕生日の記憶が蘇った。大勢の子供たちの中で、ひとり隅に座っていた怜。誰からも声をかけられず、寂しそうにしていた彼の手を、結衣が取った。
「一緒に遊ぼう」
あの時、結衣が怜を選んだのだ。
怜、あなたが私を選んだんじゃない。私があなたを選んだの。
でも今は……後悔している。
結衣は立ち上がり、壁に飾られたウェディングフォトに向かってスマートフォンを投げつけた。ガラスが砕け散り、幸せそうな新婦の顔に亀裂が走る。
二週間後、港で待っている人がいる。
この偽りの結婚生活から、ついに解放される時が来るのだ。