第5話:毒の味
夕暮れの光がリビングを薄紅色に染めていた。結衣はソファに座り、スマートフォンの画面を見つめている。
魅音のSNSが更新されていた。
写真には海老の殻を剥く男性の手が写っている。結衣が何度も見てきた光景。怜の手だった。背景には結衣が作り続けてきた小皿料理が並んでいる。
『欲しいものは、手に入れる』
挑発的な一文が添えられていた。
結衣の指先が震えた。画面の向こうで、魅音が勝利の微笑みを浮かべているのが見えるようだった。
スマートフォンが振動する。怜からのメッセージだった。
『残業だ。夕食は先に済ませてくれ』
結衣は立ち上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫を開けると、空っぽだった。桜井がいなくなってから、食材の補充は滞っている。
冷凍庫に冷凍うどんが一つだけ残っていた。
鍋に湯を沸かし、うどんを入れる。いつもなら桜井が丁寧に洗ってくれる調理器具も、今は結衣が使うしかない。
湯気が立ち上る中、結衣は無表情でうどんをかき混ぜた。
――
意識が遠のいていく。
結衣の体が床に崩れ落ちた。呼吸が浅くなり、全身に蕁麻疹が広がっていく。
ピーナッツアレルギーの症状だった。
魅音が使った後の鍋。残留したピーナッツの成分が、結衣の体を蝕んでいく。
視界が暗くなる中、結衣は過去の記憶に引きずり込まれていった。
――
あの日、父が亡くなった。
結衣は病院の廊下で一人座り込んでいた。十九歳の誕生日の前日だった。
スマートフォンが鳴る。怜からの電話だった。
「結衣?どうしたんだ?声が……」
「お父さんが……」
結衣の声は涙で途切れた。
「今、商談の最中なんだ。でも君の声を聞いていると、仕事なんてどうでもよくなる」
怜の声が優しく響いた。
「一人にしないで」
「分かった。電話を切らない。ずっと君と一緒にいる」
その夜、怜は商談を中断したまま、朝まで結衣と電話で話し続けた。
翌朝、病院に駆けつけた怜が結衣を抱きしめた。
「これからは叔父さんの代わりに、俺が君を守るから」
温かい腕の中で、結衣は初めて安心を感じた。
――
手の痛みで結衣は目を覚ました。
点滴の針が刺さっている。病院のベッドの上だった。
隣の椅子では怜が魅音を慰めていた。
「君のせいじゃない」
怜の声は優しかった。
「桜井さんは君の好きなピーナッツのお菓子を作ったんだ。結衣の不注意だよ」
結衣は目を閉じたまま、二人の会話を聞いていた。
「さあ、先に帰って休んで」
怜が魅音の肩に手を置く音が聞こえた。
「ありがとう。あなたがいてくれて良かった」
魅音の足音が遠ざかっていく。
結衣が目を開けると、怜の表情が一変した。
「結衣!心臓が止まるかと思った」
慌てたような声。だが、その瞳の奥に安堵の色が見えた。
「調理器具は全部新しいものに替えた。もうピーナッツはない」
怜は結衣の手を握った。
「桜井さんのスープが飲みたい」
結衣は静かに言った。
怜の手が一瞬強張った。
「桜井さんは実家に帰ったんだ。お母さんが倒れて」
嘘だった。桜井の母親は三年前に亡くなっている。結衣は葬儀にも参列していた。
「もっとプロの栄養士が来る。君の体調管理は完璧にするから」
怜の声は弾んでいた。まるで問題が解決したかのように。
結衣は天井を見つめた。白いクロスに小さなシミがひとつ。
「君が欲しいと言うなら、星だって摘んでやる」
怜の大げさな愛の言葉が空虚に響いた。
結衣は微笑んだ。最後の微笑みを。
――
深夜、結衣は一人でベッドに横たわっていた。
窓の外では月が輝いている。
怜、月を聖杯に捧げたあなたは、その輝きに慣れ、やがて目を背けた。
あなたを愛したことに悔いはなかった。
だが、後悔はあった。
結衣の瞳から、最後の涙が流れ落ちた。
二週間後、港で待っている人がいる。
その約束だけが、結衣を支えていた。