しかし、誰も彼に応えなかった。場を支配していたのは、凍りついたような沈黙だけだ。
愛莉だけが、一目でそれに気づいた。玲奈の養父母だ。一瞬で、身体が強張る。
坂本昭文と夫人の表情も、見る見るうちに険しくなった。まさか、あの貧乏人たちを連れてくるとは!
両家が顔合わせをした時のことを思い出す。坂本家は阿部家に対して、生理的な嫌悪に近い悪感情を抱いていた。骨の髄まで、見下しているのだ。
あんな底辺の貧乏人が、わざわざ娘を取り戻したいなどと言い出す理由は一つしかない。金だ。金銭目的のゆすりに決まっている。
昭文の瞳に、隠そうともしない侮蔑の色が浮かぶ。
一方、阿部夫婦もまた、ここに愛莉や坂本家の人々がいるとは思ってもみなかったらしい。二人の顔色がさっと変わる。萎縮し、玲奈の手を強く握りしめる養父母。
玲奈は二人の手背を優しく叩き、「大丈夫よ」と無言で合図を送った。
彼女は坂本家の人々には目もくれず、小林昭夫と村上美咲の方へ歩み寄り、挨拶を交わした。
他の連中には、挨拶する価値もない。
井上昭彦はまだ若いが、番組内では常に玲奈を目の敵にし、愛莉を擁護しては玲奈のアンチを煽ってきた男だ。
岡本凛太郎に至っては言うまでもない。原作の主人公であり、愛莉の運命の相手。玲奈を蛇蝎のごとく嫌い、彼女の破滅に深く関与した張本人。
そして坂本家の人間など、眼中にない。
村上美咲は、呆然と玲奈を見つめたまま固まっていた。
視線が、玲奈の引き締まったウエストに吸い寄せられている。衝撃と、陶酔。彼女は無意識に呟いた。「やば、色気すご……」
玲奈は足を止め、彼女に向けて微かに笑ってみせた。
美咲の顔が林檎のように赤くなる。彼女は名残惜しそうに玲奈から視線を剥がすと、恥ずかしそうに物陰へ隠れてしまった。
その時、愛莉が動いた。素早く数杯の水を用意し、阿部夫婦の方へ歩み寄る。「おじ様、おば様、お水をどうぞ。ここは暑いですから」
けなげな気遣いを見せる愛莉。だが、玲奈はそれを遮るようにして水を受け取らず、持参したフルーツを両親に手渡した。「夏都の果物は美味しいのよ。食べてみて」
「あ、ああ……ありがとう」阿部夫婦はこれだけの「大物」たちを前にして、何か粗相をして玲奈の顔に泥を塗りはしないかと気が気ではない。言われるがままに果物を受け取り、隅の方へ身を縮めた。
それを見た昭文と夫人の顔色が、極限まで冷え込む。
親不孝者め。実の親である自分たちの前で、他人を「お父さん、お母さん」と呼び、甲斐甲斐しく世話を焼くとは。
我々をないがしろにするにも程がある!
岡本凛太郎もまた、奇妙な表情を浮かべていた。今日の玲奈は、彼を一度も見ようとしない。いつもなら媚びるような視線を送ってくるはずなのに。
彼は眉をひそめて玲奈を睨んだが、すぐにカメラの存在を思い出し、慌てて嫌悪感を装って視線を逸らした。
リビングに、奇妙で気まずい沈黙が流れる。
だが、現場の空気とは裏腹に、配信のコメント欄はかつてないほどの盛り上がりを見せていた。
『うわー、気まずすぎて画面割れそう。玲奈ってば、あんなに擦り寄ってた実の親を完全無視?』
『阿部家の両親、かわいそうなくらい小さくなってるじゃん。ソファーにも座れないなんて……自分の娘が他人を親扱いしてるの見て、どう思ってんだろ』
『てか今日の玲奈、なんか雰囲気違わない? メイク変えた? マジで美人なんだけど』
『言いたくないけど、玲奈と坂本夫妻、顔立ち似てね? 目元とか鼻筋とか……』
『は? 上の奴、眼科行けよ。ドブ川のゴミが名門に似てるわけねーだろ』
擁護コメントは、すぐに愛莉の親衛隊による罵倒で流されていく。
リビングの空気が限界まで張り詰めた頃、ようやく制作陣が到着した。
現れたのは渡辺監督。黒縁メガネをかけた、インテリサブカル風の小柄な若者だ。
彼は一同を見回すと、台本を棒読みし始めた。「ようこそ『愛する家族』へ。六組の家族が、この美しい海辺で過ごす素晴らしい二泊三日。楽しんでくださいねー」
抑揚のない声。そして、すぐに本題に入る。「では、最初のミッションです。テーブルの上のアイテムを選んで、部屋を決めてください。それぞれのアイテムが、この別荘の部屋に対応しています。家族で相談して決めるように」
カメラがテーブルの上を映し出す。
用意されたアイテムは六つ。エプロン、本、茶葉、リモコン、おもちゃのブロック、そしてマイク。
小林昭夫が目を見開き、信じられないという顔をした。「ちょっと待ってくれ。まさか、六家族全員でこの別荘一棟に泊まるのか?」
「はい。それこそが、家族間の交流を深めるための……」
「ストップ! 制作費ケチった言い訳は聞きたくないね」
小林のツッコミに、渡辺監督は悪びれもせず肩をすくめた。
玲奈は展開を知っていたが、それでも口を挟まずにはいられなかった。「交流が深まるかは知らないけど、揉め事を起こさせる手腕だけは一流ね」
「……」渡辺監督が沈黙する。
『wwwww 玲奈の毒舌www 監督の顔www』
『あはは、キャラ変? 自虐ネタ?』
『てかマジでケチすぎだろ。18人で一棟とか合宿所かよ』
『玲奈が何文句言ってんの? お前みたいな貧乏人は、こういう豪邸に泊まれるだけで感謝しろよ』
愛莉はバラエティ慣れしていないのか、首を傾げて尋ねた。「あの、このアイテムが部屋のヒントってことですか?」
「たぶんね」小林がベテランの勘を働かせる。「『本』は書斎付きの部屋、『ブロック』は子供部屋……『リモコン』は何だ? シアタールームか、ゲーム部屋か」
「じゃあ俺これ!」井上昭彦が飛び出した。真っ先にリモコンを掴み取る。「俺、ゲーム好きなんで! これにします!」
子供のような必死さに、周囲から失笑が漏れる。
小林は苦笑しながら、自身の両親を振り返った。「父さんたちは、どれがいい?」
「わしらは茶が好きだから、これにしようかね」小林の父は照れながら答えた。
「じゃあ、遠慮なく」小林は茶葉の缶を手に取った。
玲奈はそれを見届けると、一番手近にあった『本』を手に取った。「私はこれで」
すかさず、井上が鼻で笑う。「ハッ、猫かぶってんじゃねーよ。お前が本なんか読むか?」
玲奈は冷ややかな視線を彼に向けた。「私もゲームが良かったけど、誰かさんが真っ先に取っちゃったから仕方ないでしょ?」
「っ……」井上は言葉に詰まった。
つまり、俺が皆に意見も聞かずに独り占めしたと言いたいのか?
くそ!性格の悪い女だ!
小林が残りのメンバーに声をかける。「残りの三人はどうする?」
愛莉が優しく微笑んだ。「美咲ちゃん、先に選んでいいよ」
「えっ、いいの? じゃあ遠慮なく!」村上美咲はずっと狙っていたマイクを手に取り、えくぼを浮かべてはにかんだ。「私、これがいいです」
愛莉は頷くと、自身の両親である坂本夫妻を振り返った。「お父さん、お母さん。私たちはどれにする?」
坂本夫人が愛しげに愛莉の髪を撫でる。「私たちは何でもいいわよ。愛莉の好きなのになさい」
「じゃあ、私はエプロンにしようかな。凛太郎くんはブロックが好きだし……」愛莉はちらりと凛太郎に視線を送り、ハッとしたように頬を染めて言い直した。「私とママ、お料理が好きだから。あとで皆さんに夕飯を作ってあげられるし」
凛太郎が感動したように彼女を見つめ、甘い声を出した。「なら、僕が手伝うよ」
愛莉はさらに顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯いた。
『キャーーー!! 尊い!! もう結婚して!!エリリンCP夫婦のために私を殺して!!』
『甘すぎて糖尿病になるわ! 公式が最大手!』
『愛莉ちゃんはもともと思いやりがあるの。岡本監督も紳士的なだけだから、みんな深読みしないでね~』
『愛莉ちゃんマジ天使。料理担当とか好感度しかない。それに比べて、本なんか選んでインテリぶってる誰かさんよ。挨拶もしないし、育ちが出るね』
『は? 上の奴なんなの? 玲奈は残り物選んだだけだろ』
コメント欄が再び荒れる中、部屋割りは決定した。
渡辺監督が手を叩く。「はい、決定ですね。今日のミッションはこれだけです。各担当PDが部屋へ案内します。キッチンには食材を用意してあるので、夕食は自分たちで作ってください」
言うだけ言って、渡辺監督とスタッフたちはさっさと撤収してしまった。
小林が呆れたように呟く。「番組の予算が足りないなら、カンパするけど? 本当に」
監督は聞こえないふりで去っていった。
玲奈は肩をすくめた。
『小林兄、それ一番言っちゃダメなやつww』
『玲奈の鎖骨……誘ってんのか? けしからん、もっとやれ』
『愛莉ちゃんのエプロン姿とか需要しかない。今夜の飯テロ期待』
『さあ、バカ息子の昭彦君がどんな部屋を引くか見ものだな』
それぞれのPDに連れられ、各家族が散っていく。玲奈がボストンバッグを持ち上げようとした時、ちょうど井上と鉢合わせた。
井上は露骨に嫌な顔をして鼻を鳴らすと、くるりと背を向け、愛莉の方へ駆け寄った。「先輩、手伝うよ!」
彼は愛莉の大きなスーツケースを軽々と持ち上げ、階段へ向かおうとした。その時、PDが声をかけた。「あ、井上さん。上がらなくていいですよ。井上さんと坂本愛莉さんの部屋は、どちらも一階ですので」
「……は?」井上が固まる。
玲奈は口元を歪め、皮肉たっぷりに笑いかけた。「おめでとう。無駄な体力を使わずに済んで良かったわね」
「……ッ!」
何故だろう。井上昭彦の背中に、猛烈に嫌な予感が走った。