บท 9: やはり彼女だった
บรรณาธิการ: Inschain-JA
その夜、冷たい月光が澄みわたり、清水初実の肩に淡い銀のヴェールを纏わせていた。
少女の艶やかな黒髪はゆるくまとめ上げられ、ふわりとした前髪が両頬にかかっていた。シンプルなヘアスタイルに、少し大ぶりなラインストーンのタッセルピアスが揺れて、もともと小さな顔をさらに小さく引き立てていた。
顔を上げると、深い群青色のシルクマーメイドドレス。フレンチストラップが丸みを帯びた肩にしなやかにかかり、白く整った首筋と精緻な鎖骨が際立って見えた。
ドレスのしなやかな生地が美しい曲線を描き、その背中は大胆なバックレス。少女の滑らかな背中を大胆に露出し、思わず息を呑むほどの美しさだった。
細いラインストーンのストラップが腰のくびれに交差し、きらめく大きなリボンへと続く。そのリボンは幾重にも折り重なり、まるで天の川の星屑をちりばめたよう。身じろぎするたび、ほのかな光の粒が零れた。
「ちょっと、柔、お兄さんはどこからこんな芸能人級の美女を連れてきたの？」村田朋未がぽかんと口を開けてつぶやいた。「信じられないくらい綺麗！」
「綺麗だけじゃないわよ。あのドレス……薔薇夫人が引退前にデザインした深海マーメイドドレスじゃない？あれってエリソンが１億６千万円で買い取ってコレクションにしてるって聞いたけど、なぜ彼女が着てるの？」
「絶対エリソンが貸したんだよ。メイクもヘアも、見れば一目で分かる。今日の仕上がりは完全にエリソンの仕事だもん」
「いったいどこの家のお嬢様？この美しさと雰囲気、エリソンと親しいのに私たちが全く知らないなんて…もしかして最近帰国した子？」
会場のあちこちで、誰もが驚きの視線を向けていた。少女たちも小声でざわめき、空気がざわついていた。
ただ一人、清水柔だけが足もとに力が入らず、小さく震えながら「こんな…こんなの…」と信じられないようにつぶやいていた。
藤原真一もその美しさに思わず息を呑んでいたが、ふと隣を見ると清水柔の顔が真っ青になっていた。慌てて彼女を支え、「大丈夫？柔、気分悪いのか？」と小声で尋ねた。
清水柔は唇を噛みしめ、「…大丈夫」と無理に微笑みを作った。
「なら良かった…」と藤原真一は安心したものの、もう一度景久の隣の少女に視線を戻した。「でも、この子ってお兄さんの知り合い？前に一度も見たことなかったけど…」
ちょうどそのとき、皆の注目を一身に集めている少女が、清水景久と何か言葉を交わし、そのまま彼らの前へと歩み寄ってきた。
「柔」と清水初実は柔らかい微笑みを浮かべて言った。「エリソンの所から出てきた時に、ちょうどお兄さんが近くにいて、一緒に来たの」
少女の声は穏やかで礼儀正しく、「あなたもお母様も早く着いてたのね。私、遅れたりしてない？」と続けた。
……妹？兄？お母様？
その場にいた全員が一瞬、時が止まったように固まっていた。
「まさか…あなた、田舎から来た清水初実じゃないわよね？」村田朋未は完全に唖然とし、声を震わせながら訊いた。
「あなたは柔のお友達ですか？」初実は丁寧に手を差し出した。「初めまして、清水初実です。お会いできて嬉しいです」
まるで時間が止まったかのように、さっきまで好き勝手に噂していた令嬢たちは、気品に満ちた少女を前にして言葉を失っていた。
しかし、最も衝撃を受けていたのは藤原真一だった。
「君が…清水初実？」藤原真一は瞳孔まで揺らし、目と声が驚きに満ちていた。
「え…？」初実は男の方を知らないふりで見つめ、「どなたでしょうか…？」
藤原真一には到底信じられなかった。田舎育ちの清水初実が、まさかこんな姿で現れるなんて…
色白でほっそりとした身体、清らかで浮き立つような雰囲気、そして完璧に整った顔立ち。真一が想像していた“田舎臭くて黒くて泥くさい少女のイメーとは、まるで正反対だった。
これが――おじいさんが決めたあの許嫁なのか？
少女のどこか戸惑いを含んだ澄んだ瞳と目が合い、藤原真一は思わず息を呑み、しばらく言葉を失ってしまった。
藤原真一の視線があまりに真っ直ぐで、清水柔は肩が小さく震えたが、無理やり微笑みを浮かべ続けていた。
「お姉さん、そのドレスどこから来たの？お母様が選んだのは別のだったはずよ」と清水柔が絞り出すように訊いた。
「えっと…」清水初実は自分のドレスを見下ろし、「皆さんが出かけた後、エリソンというお兄さんが選んでくれて。メイクもヘアも全部彼がやってくれたんだ」と答えた。
「エリソン…というお兄さん？」林矢子は思わず問い返した。「まさか、エリソン本人を知らないの？」
清水初実は正直そうに首を振った。「知りません」
「でも、なぜ彼があなたのためにメイクを…」林矢子は息を呑んだ。「それにエリソンは薔薇夫人のドレスを宝物みたいにしてるのに、初対面の人に貸すなんて…」
「エリソンは、今日私に会って縁を感じたみたいで。パーティーに出ると聞いて、自分からドレスもヘアも全部してくれたんだ」
「それに心配しないで。エリソンはお金を取らなかったし、終わったらドレスを返せばいいって」
そんなことがあるなんて。
エリソンにタダでヘアメイクしてもらい、あの幻の薔薇夫人ドレスまで貸してもらえるなんて――こんな夢のような話、自分たちには一度も巡ってこなかった。
でも…そう考えると、みんな少し納得したようだった。
「そりゃ、こんなに綺麗になるはずよ」村田朋未は鼻を鳴らした。「エリソンの手にかかれば、どんな子でも美人に生まれ変わるもん」
「でもさ、小さい頃から田舎で暮らしてたなら肌荒れとか酷そうだけど…ファンデも浮いてないし、エリソンって本当に凄いわね」と軽蔑気味に清水初実を見た。
村田朋未の頭の中では、上流階級は何より血筋と出自が大事”という価値観が染みついていた。
清水初実のような私生児は、本来なら表舞台に立つ資格すらなく、ここで自分たちと並ぶなどあり得ないはずだった。
さっき車から降りてきてあれだけの視線を集め、思わず自分も無意識に褒めていたことが今さら腹立たしい。
村田朋未は皮肉を込めて言ったつもりだったが、清水初実はどこまでも無垢な声で「違いうよ」と返した。
「何が違うの？」と村田朋未が眉をひそめる。
「つまり…」清水初実は無邪気な口調で自分の頬をそっと撫でながら、「エリソンは眉と口紅だけ描いてくれたんだ。だからファンデーションは塗ってなくて、あなたが言うようなことは起きてない」と答えた。
「は…？」朋未は再び目を丸くした。
――この白くて滑らかな、欠点一つない肌…本当に田舎者のすっぴんだって！？
彼女たちは毎日何百万円ものスキンケアを使い、定期的に高級エステや美容注射に通っても、こんな効果は一度も得られなかったのに。
村田朋未は言葉に詰まり、顔まで真っ赤になって黙り込んだ。
「……」
清水柔さっきから完全に蚊帳の外。会場のあちこちでまだ清水初実を盗み見る招待客がいて、ひそひそと噂が続いていた。
ずっと自分がパーティーで一番注目を集めてきたのに、今や完全に清水初実の背景扱いだ。
せっかく今日新調したネイルも、指先が肉に食い込むほどにギュッと握りしめていた。
「真一君、もうすぐオープニングパフォーマンスが始まるわ。一緒に準備しない？」柔は真一の手をそっと握って甘く声をかけた。
「あ、うん」
藤原真一と清水柔は付き合い始めて半年になる。いつも清水柔に優しく、言われれば何でも応えてきた。
確かに今夜は清水初実に目を奪われた瞬間もあったが、藤原真一の中で清水初実が清水柔に及ぶことは決してなかった。
何しろ清水柔こそが正真正銘の清水家のお嬢様。美しく、成績も優秀で、ピアノや茶道も全て一流。田舎育ちの私生児など、到底比べるまでもない。
藤原真一の返事に清水柔は笑顔を浮かべたが、背を向けた瞬間、その口元は冷たく沈んだ。
エリソンにどれだけ綺麗に仕上げてもらっても、所詮は一時の幻だった。自分は小さい頃から清水家で徹底的に育てられ、十二歳でピアノの十級まで取った。
清水初実なんて芸は何もないはず。せいぜい口笛くらい？本物のピアノさえ見たことがないかもしれない。
これから自分がステージに立てば、またみんなの視線は自分に戻ってくるはず。見せつけてやる――二人の差はドレス一枚なんかじゃないということを。
――その頃。
会場の片隅、車椅子に座ったまま押し入れられた男が、清水初実に目を留め、瞳孔をわずかに細めた。
――やはり彼女だった。
昨日、路上で強引にキスをしてきたあの少女。まさに清水家が江市に迎え入れたばかりの私生児だった。
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