外は激しい雨。稲光が走り、雷鳴が轟く。
石川瑠那は全身びしょ濡れのまま、畑中家の人間たちの冷たい顔を思い出し、胃がひっくり返るように込み上げて吐き気を覚えた。涙と雨水が混ざり合い、口の中へと流れ込む。
黒塗りのベンツの後部座席で、小さな男の子がじっとその姿を見つめていた。指先で窓ガラスをトントンと叩く。
「坊ちゃま、きちんと座ってください。外は大雨ですから、濡れてしまいますよ」
運転手が声をかけたその瞬間、急ブレーキ。振り返ると、坊ちゃまはすでにドアを開けて飛び出していた。
「し、しまった!」
運転手の顔から血の気が引いた。もし怪我でもさせたら、自分の命がいくつあっても足りない。
男の子はすでに雨の中を駆け出していた。運転手は慌てて傘を掴み、後を追う。今夜は畑中本家での夕食会に坊ちゃまを送り届ける予定だった。畑中彰(はたなか あきら)から直々に任されていたのに――。
「坊ちゃま!お願いですから戻ってください!」
必死に呼びかけるが、少年は聞く耳を持たない。
泣きじゃくる瑠那の身体に、不意に小さな影がぶつかってきた。腫れ上がった瞳を開けると、澄んだ光を宿した子どもの瞳とぶつかる。
運転手は慌てて駆け寄った。全身ずぶ濡れになった坊ちゃまを見て、震える手でスマホを取り出す。
「……畑中、畑中さん。坊ちゃまが……雨で全身濡れてしまいまして、いったん服を替えるために戻らせていただきます」
畑中彰は電話越しにその報告を聞き、鋭い光を目に宿した。あの子は生まれてからずっと、おとなしくて、声ひとつ立てない子だったのに――どうして突然、雨に打たれてしまったのか。
「今、何をしている?」
低く冷えた声に、運転手は思わず身を震わせた。その声色に怯え、震える唇で言葉を探しながらも、お坊ちゃまを抱き上げようとした。だが、子どもは石川瑠那の腕を必死に掴んで、離れようとしなかった。
「そ、それが……坊ちゃまが、雨の中を歩いていた女性を見て、突然車を降りてしまって……」
運転手が言い終わらぬうちに、電話の向こうで彰の声が鋭く割り込んだ。「とにかく連れ戻せ。俺もすぐ帰る」
運転手は慌てて頷き、電話を切ると、ばつが悪そうに石川瑠那を一瞥した。彼女の顔は腫れ上がり、髪も乱れていて、まともにその容貌を見分けることはできない。
この土砂降りの夜に外をさまよっているなど、もし何か良からぬ目的でもあったら大変だ。
だが――家のあの方のことを思えば、たとえ彼女が何か企んでいたとしても、まず実現はできないだろう。
「お、お嬢さん……。坊ちゃまは体が弱いんです。どうか一緒に車に乗ってください。このままでは私の首が飛びます。」
石川瑠那は震える体を抱え込みながら、心まで冷え切っていた。視線の先に停まっている高級車を見て、唇をかすかに震わせて頷くと、しゃがみ込んで男の子を抱き上げ、そのまま自分の胸にしっかりと抱き寄せた。
その光景に、運転手は思わず目を見張った。坊ちゃまは体が弱いだけでなく、長年、心を閉ざしてきた。畑中彰様も、この子が少しでも人に心を開けるようにと、さまざまな手を尽くしてきたのだ。
だがこれまでのところ、坊ちゃまはせいぜい拒絶せずに側にいさせる程度でしかなかった。
先ほど、坊ちゃまが自ら石川瑠那の腕の中へ飛び込んでいったのを、この目ではっきり見た。これをもし畑中彰様が知ったら――決して穏やかな気持ちではいられないに違いない。
石川瑠那は、畑中家で冷遇されてはいたものの、多少の目利きは身につけていた。ひと目でこの車がベントレーだと分かったし、この坊ちゃまが特別な存在であることは疑いようもなかった。
見知らぬ車に乗り込むなど、本来なら命がけの行為だ。だが今の彼女には、もう何も持たない。相手が彼女に狙うようなものなど、残ってはいないのだ。
瑠那は自嘲気味に口元を歪め、車に乗り込むと、端の席で小さく身を丸めた。