中村信彦は一瞬固まった。そういえば……詩織は何も言っていなかった。
彼女を連れ帰って来て、詩織は気性が激しく、しょっちゅう彼を脅していた。
だが一度も不満を言ったことはなく、文句も言わなかった。
彼女はただ……自分なりのやり方で、自分の利益を守っていただけだった。
本当なら……泣いたり、不満を漏らしたりすれば、もっと楽に得られるものなのに、彼女はそうしなかった。
中村信彦の脳裏に、強気な詩織の顔が浮かんだ。
そのとき、外から突然、竹内志穂と中村美月の叫び声が響いた。
「彰人!どうしたの、誰があなたをこんな目に遭わせたの!」竹内志穂の声は悲痛で、まるで屋根を突き破りそうな勢いだった。
「彰人、詩織が何かしたの?」美月は敵意のある目で詩織を見た。
確かに詩織と彰人の体格差は大きく、詩織の細い体つきでは彰人にこれほどの怪我を負わせるとは考えにくかった。
しかし彰人は詩織を待ちに出て行き、彼女と一緒に帰ってきたときにはこんな状態になっていた。それなのに詩織は何も問題がないように見えた。
たとえ本当は詩織と関係なくても、詩織に責任があるに違いない!
中村信彦は電話を切って外に出た。
リビングに来ると、彰人の顔が青あざだらけで腫れ上がり、右頬には何かで押しつけられたような大きな赤い痕がついていた。
頬には小石を押し付けたような小さな窪みの痕が無数についており、まるで石焼きせんべいを顔に乗せたようだった。
中村信彦は驚いた。そして彰人の顔の痕がどこかで見たことがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。
「どうしたんだ?」中村信彦は驚愕した。
彰人は顔の痛みに顔をしかめながら、中村信彦が彼の顔の痕を見覚えがあると思っていることを知らなかった。
もし知っていたら、必ず中村信彦に教えただろう。見覚えがあるはずだ!
家の外の塀を見てみろ、同じ模様じゃないか?
彰人が口を開こうとした瞬間、詩織が先に言った。「彼が私を脅したのよ。あなたが私にくれたカードを美月に渡せって。それに食事のときはテーブルの一番端に座れって。私が拒否したら、彼が私を殴ってきたの」
彰人は憎々しげに詩織を見た。
こいつ、先に嘘を言いやがった!
「嘘でしょう。もしそうなら、どうして彰人がこんな顔になって、あなたは何ともないの?」竹内志穂は心配そうに彰人を支えながら言った。
「当然、彼が私に勝てなかったからでしょ」詩織は馬鹿を見るように志穂を見た。
志穂は言葉に詰まった。しかし彰人は詩織より頭一つ半も高く、はるかに大柄だった。
詩織に勝てない?
冗談じゃない!
志穂は顔を青ざめさせ、中村信彦に泣きつくように訴えた。「信彦、詩織が私の実の子ではないとしても、私は彼女に優しくしたかったの。彼女が私を認めず、『竹内おばさん』と呼んでも気にしないわ。でも彼女が彰人をこんな目に遭わせるなんて許せない!彼女が戻ってきて初日からこんなことになるなんて、これからどうなるの?」
「彼が私を殴ったんだから、私が反撃しちゃいけないの?」詩織は腕を組み、軽蔑したように言った。「彼が先に手を出したのに、私に勝てなくて、恥ずかしくないの?私なら、ここで大声で文句なんて言わないわ。人を殴ろうとして、勝てなくて、逆に殴られたなんて、自業自得でしょ?」
「私たちは彰人と17年間一緒に暮らしてきて、彼のことをよく知っています。彼はいつも優しく礼儀正しいから、人を殴るなんてことするはずがありません」美月は眉をひそめて言った。「あなたが人を殴っておきながら、言い訳をして、嘘をついているんでしょう」
このような理不尽な言い争いに、詩織は相手にせず、ただ首を伸ばして中村信彦に言った。「カードを私にくれたのに、奪いたいなら奪いたいと言えばいいのに、なぜ『譲れ』なんて言うの?私に何か与えられたら、兄妹がそれを奪おうとするの?同じ中村家の子なのに、どうして私が少しでも何かを得ることを見過ごせないの?食事の席まで恨みに思って、ずっと覚えていて、私に座らせたくないなんて。それならなぜ私を連れ戻したの?」
「何を言っているんだ!」中村信彦は今日ほど疲れを感じたことはなかった。
次から次へとトラブルが起き、終わりがなかった。
「お姉さんの言葉は、私たちには納得できません。私はお父さんからのカードはもらっていませんが、幼い頃から何一つ不自由なく、毎月数万円のお小遣いをもらっています。私にとってカードは必要不可欠なものではありません。彰人が私のために、お姉さんにカードを要求するはずがありません」美月は詩織の表情を見つめた。
詩織は田舎の叔父の家で11年間過ごし、満足に食べることもできず、漬物だけで生きてきた。
彼女が毎月数万円のお小遣いだけで暮らしていると聞いたら、気が狂うんじゃないか?
詩織が激しく怒れば怒るほど良い、中村信彦が彼女を我慢できるかどうか見ものだ!
「食事の席についても、そんな話は全くの作り話です」美月は嘲笑した。
詩織は冷ややかに唇をゆがめ、突然手を伸ばして彰人を志穂の手から引っ張った。
志穂は呆然とし、詩織の力に抵抗できなかった。
「言ってみろ。玄関で私を待ち伏せして、何て言ったんだ?」詩織は冷たく彰人を見つめ、目には明らかに「本当のことを言わなければ、これからも毎食後に殴るぞ」という脅しが書かれていた。
彰人はもちろん本当のことは言えなかった。
そうすれば、彼と母と姉の中村信彦に対するイメージが崩れてしまう。
しかし詩織の視線の下で、彰人は嘘をつく勇気がないことに気づいた。
なぜか、もし嘘をつけば、詩織は本当に毎食後に彼を殴りそうな気がした。
重要なのは、彼は本当に詩織に勝てないということだった!
彰人は唇を震わせ、言葉を発することができなかった。
「もういい!」志穂は彰人を抱きしめ、「詩織、私たちは家族なのに、どうして仲良くできないの?弟や妹をいじめて、どこまでやれば気が済むの!」
詩織は冷笑して、彰人から手を放した。
それでも、彼女は中村信彦の前で、田舎に11年間も置き去りにされた不満を一度も口にしなかった。
中村信彦はそのことを思い、眉をひそめて言った。「もういい」
「部屋に戻りなさい。大学入試が近いんだから、しっかり勉強して、問題を起こさないように」中村信彦は詩織に言った。
それから美月と彰人にも言った。「食事の席は決まった通りだ、これからもそうする。美月のカードは、彼女の誕生日プレゼントにするつもりだった。美月、あと二ヶ月待ちなさい」
「今回のことは、どちらが嘘をついているかは追及しない」中村信彦は考えた末、詩織に警告した。「あなたが戻ってくる前は、この家はとても平和だった。あなたが田舎に置かれたことに不公平を感じているのは分かる。でもそれは仕方なかったことだ。あなたが田舎に行って、この家のためにした貢献は忘れていない。問題を起こさなければ、あなたの取り分も減らさない」
詩織は無関心な態度で、大きく揺れながら部屋に戻った。
美月と志穂は顔を見合わせた。今回、中村信彦は詩織を責めなかった。詩織の言葉を信じたのだろうか?
志穂は美月に安心させるような視線を送った。
この件は急ぐべきではない。詩織が中村家にいる限り、彼女を不利にする方法はある!