夜通しの勉強の成果――それは、両目の下にできた見事なパンダのようなクマだった。
どんなにコンシーラーで隠そうとしても無駄。しかも、一晩中がんばったわりに、頭に入った内容はほんのわずか。
夜中、何度も母が部屋を覗いて「もう寝なさい」と声をかけたが、詩織の性格を知っている母には、それが無駄だとわかっていた。
――生まれ変わった人生で最初の目標。こんなところで諦めてたまるもんか。
「やっぱり……焦っちゃダメか。」一晩やってみて、詩織は悟った。一気に完璧になれる人間なんていない。一歩ずつ、少しずつ。焦りすぎれば、かえって遠回りになる。
どうやら転生も万能ではないらしい。たとえ特殊能力があっても、それが勉強に使えるとは限らない。
目の前の教科書をぱたりと閉じ、詩織は深く息をついた。
今日は、七年前のクラスに戻る日――胸の奥が、少しだけざわめく。でも、もうあの「気弱な夏目詩織」は過去の自分だ。
「お母さん、お父さん」
リビングに出ると、朝食の香ばしい匂いが広がっていた。
「一晩中起きてたんでしょ? 無理しないで今日は休んだら?」
母の声は優しいが、詩織は小さく首を振る。
「大丈夫だよ」前世では、デザイン画仕上げるのに二晩徹夜したこともあるんだから。
「……そう。じゃあ無理はしないで。もし気分が悪くなったらすぐ電話しなさいよ」
「分かったよ」
「さあ、早く食べなさい」
朝食を済ませ、家を出る。
通っている高校は市内でも中堅どころ。家からバスでわずか十分。通学にはちょうどいい距離だった。
月曜の朝――通勤通学の人たちでバスは満員。
特にこの11番線は、剛毅高校の生徒が多い。
「ふあぁ……」
詩織は最後部の席に体を押し込み、少しでも目を閉じようとした。
朝食後は大丈夫だったのに、今になって急に眠気が押し寄せてきた。
バスが静かに揺れる中、ようやくウトウトしかけたその時――
誰かが彼女の制服の袖をぐいっと引っ張った。
「ねぇ、夏目詩織!昨日どういうつもり?あたしのノート、本当に破ったの!?」
――近藤天海。
そういえば、同じ団地だったんだっけ。
朝からご苦労さま、これはまさか「尋問タイム」?
「破ったよ。」
欠伸を噛み殺しながら淡々と答える。眠い。とにかく眠い。
「なっ……本当に破ったの!? ちょっと、あんた何考えてんのよ!」
天海の声がバスの中に響き、すぐに周囲の視線が集まる。慌てて彼女は声を潜め、「だったらノート代、弁償しなさい。倍よ、千円!」と続けた。
この千円があれば、今夜は友達と一緒にバーで一杯飲める。今月、お父さんが一銭もくれなかったから、この嫌な女と対決する必要があった。
「お金ない。」
短く答えて、再び目を閉じる。眠気が限界。
「なっ……!?」
予想外の反応に、天海は一瞬言葉を失う。――まさか反論されるなんて思ってなかったんだろう。
ダメだ、今日このお金を絶対に手に入れないと。
「何よ、その態度。宿題は自分でやりなさいって、昨日も言ったでしょ? それでもまだ分かんないなら、もう二度と助けないから。」詩織の声は静かだが、目だけは鋭かった。
――こういうタイプには優しくしても無駄。下手に出れば出るほど、つけ上がるだけ。
「……いいわ。覚えてなさいよ、夏目詩織!」
近藤天海は、唇を噛みしめながら睨みつける。まるで息を吐くたびに怒気が漏れるようだ。
「どうしたの?殴るつもり? その細い腕と足で、あたしに勝てるとでも?」
詩織は腕を組み、まるで「やってみなよ」と言わんばかりに肩をすくめた。
「こ、このっ……!」
天海は顔を真っ赤にし、指を震わせながら詩織を指さす。
――まさか、ここまで堂々とやり返されるとは思ってなかったんだろう。
「ありがとう。褒め言葉として受け取っとく」
余裕の笑みを浮かべながら言う詩織に、天海は歯ぎしりをした。
「ふん、覚えておきなさい」
詩織は内心でため息をつく。
――ほんと、分かりやすい子。気勢さえ負けなければ、簡単にしぼむ。でも、あの子が外の不良とつるんでるって噂もあるし……少しは警戒しておこう。
「次は、剛毅高校前~」アナウンスの声が流れる。
「すみません、通してください」詩織は天海の前をすり抜け、堂々とバスを降りた。背後から突き刺さる視線など、気にも留めない。
バスでのこの一幕を多くの人が目撃した。天海の声が大きかったので、気づかないわけにはいかなかった。
「え、すご……あの子、完全に勝ったじゃん」
「バスの中で女子がケンカとか、朝から刺激強すぎ」
そんなヒソヒソ声があちこちから聞こえてくる。
――この時代、女王様って言葉はまだ一般的じゃなかったけど、
もし七年後だったら、きっと誰もがこう言っていただろう。「あの子、女王オーラ半端ない!」
「おい、遠藤。今の近藤と夏目だろ?同じクラスの」
「……ああ」
「へぇ~、あの地味だと思ってた夏目、意外とやるじゃん」
彼女が「特別」とされている理由なんて、同じ学年の誰もが知っている。
――あの有名なお騒がせ二人組、紅葉と近藤にいつも絡まれているからだ。
「ああ」遠藤は短く返事をし、
その目は、詩織がバスを降りる後ろ姿を静かに追っていた。
「まさかさ……まだ告白してないとか言わないよな?もう三年生だぜ?一年生の時から好きなんだろ?」
隣の中島剛(なかしま ごう)が、信じられないという顔で彼の肩を小突く。
「……」
「おいおい、三年目の片想いって、どんな修行だよ。剛毅高校の王子がそんなチキンだったなんて、言ったら女子全員腰抜かすぞ?」
中島は苦笑しながら続けた。
実際、彼がこの話を知ったのはほんの一週間前。
それまでずっと、遠藤宏樹(えんとう ひろき)は校内の人気者――紅葉あたりを好きなんだろうと勝手に思っていた。まさか、あの静かで目立たない夏目詩織だとは。
ただ、残念ながら「想い人は気づかない」というのが現実らしい。王子様も、こういう情けない一面があるとは。
とはいえ、中島も内心では納得していた。
確かに夏目詩織は可愛い。
でも、いつも俯いてばかりで、目立たない。あの二人――鈴木紅葉と近藤天海――がいなければ、きっと誰も彼女を覚えていないかもしれない。
存在感、薄すぎ。
「ああ」
「なぁ、俺が代わりに呼んでやろうか?『夏目詩織~!』ってさ!」
「いいよ、何も言わないならお前が同意したと思うよ。あ、夏目詩織……」
次の瞬間、中島の口は宏樹の手で塞がれた。
「んーっ、んーっ!」くぐもった声がバスの外に漏れる。
「……あれ? 今、誰か私の名前呼んだ?」
詩織は不思議そうに振り返ったが、見覚えのある顔はなく、すぐに首を傾げて歩き出した。
ようやく手が離れた中島は、大きく息を吸い込む。
「ぷはっ……死ぬかと思った! お前、力強すぎだろ!」
「はいはい……。もう勝手に片想いしてろよ、俺は関わらねぇ」
「……授業始まる。行くぞ」
宏樹は表情を崩さず、制服の襟を正して歩き出した。
「おい、待てよ」中島はついに分かった。遠藤がしたくないことに口を出さない方がいい。そうでなければ、どう死ぬか分からない。
こんな腹黒い友人を持つとは、中島もお手上げだった。