丘陵を越えたところで、村が見えた。
小さな家が肩を寄せ合って立ち、石壁に干した布が揺れる。
通りの屋台には小さな魔法灯がぶら下がり、薄い紫の火が昼でも点っている。
道を、山羊に似たトカゲが横切る。屋根の上では青い小鳥獣が短く鳴き、子どもが「待てー」と笑って転び、すぐ起き上がる。明るい声が昼の空に跳ねた。
けれど、笑いは長く続かない。咳で立ち止まる子。顔色の悪い大人。食べ物はあるのに、空気はどこか沈んでいる。
「……思ったより賑やかな村ですね」
リリィが笑みを浮かべる。
ルークは息を吐いた。
「その割に、咳の音が多い。診療所は手一杯かもしれないな」
年配の男が駆けてきた。リリィの胸元の紋を見て、目を見開く。
「その印……あなた様は、もしや聖女様では」
男は膝をついた。
「どうかお助けを! 村で熱が流行っています。子らも、年寄りも」
リリィは慌てて首を振る。
「違うんです。私はまだ修行中です。怪我は癒やせますが、病は……今はできません」
「そう……ですか」男の肩が落ちる。
リリィはすぐ顔を上げ、隣を示した。
「でも、この方ならきっと。わたしが信じる薬師さんです」
男の視線がルークに移る。緊張と期待が混ざった目だった。
「……あなたは?」
ルークは穏やかに会釈した。
「ルークと言います。薬師をしています。診るだけ診せてください」
口角に少し笑みを乗せる。
その一言で、周りがざわつく。
「薬師……?」
「ほんまに治せるのか」
「頼む、誰でもええ。手を貸してくれ」
男は道の向こうを指した。
「ぜひ診療所へ。こちらです」
診療所は掘っ立て小屋のようだった。
扉を開けると、乾いた薬草の匂いと低いうめき声が流れ出す。
中は狭く、寝台が三つ、木の椅子がいくつか。
老人が布団の端を掴み、息のたびに喉が鳴る。
母親に抱かれた子どもの額は真っ赤だ。若い男は膝の傷が膿んで、臭いが立っている。
「薬は尽きました」
診療所の老婆が頭を下げる。
「王都に頼るお金も、時間も」
「私も手伝います」
リリィが言う。
「消毒や水汲み、します」
ルークは返事の代わりに薬袋を机に置いた。瓶が触れ合い、澄んだ音がする。透明、淡い緑、薄い琥珀色。小さな瓶が整列した。
「本当に効くんかいな」
「わしの腰、ついでにな」
「静かにしなさい。今は子らが先やろ」
小さな笑いが漏れて、空気がわずかに軽くなった。
ルークは手を洗い、布で指先を拭く。
「腰の薬は、余ったら考えます。まずは熱から」
「おお、頼むわい」
やり取りに、周囲の肩が少し落ちる。
ラベルを確かめ、粉末を小さな匙で掬う。透明の液体に青緑の粉を落とす。
「ルークさん、顔が怖いです!」
「そうか? 普通にしてるつもりだけど」
「仕事の顔が出てます。ちょっとだけ優しく」
「努力する」
じゅっ、と小さな音。草と金属の間のような匂いが立つ。
その瞬間、視界がふっと白く飛んだ。
――蛍光灯の白。
――無機質な床。
――「臨床試験は予定通りです」
――効果九〇パーセント、副作用軽微。モニターの数字。
――拍手。笑顔。背中を叩く手。
――赤いランプの点滅。
――酸素マスクの少女の咳。
――「どうして……」母親の声。
瓶の口が指から滑りそうになる。
「ルークさん!」
リリィの手が支えた。強くはないが、離れない。
「呼吸を。私がいます」
「……大丈夫だ。続けるぞ」
ルークは息を吸って、吐く。指先に力が戻る。滴下を再開。粉と液が混ざり、色が変わる。緑が薄くなり、すっと透明にほどけた。
「できた…」
一滴を火で温め、香りを嗅ぐ。甘い匂いがかすかに立つ。配合は正しい。
老人の唇に薬を数滴。呼吸を数える。
一つ、二つ、三つ。肩の上下がゆっくりになる。眉間のしわがほどける。
「……楽に、なった」
老人が小さく言う。娘が涙を拭った。
子どもに薄めた薬を。頬の赤みが引き、目の焦点が合ってくる。額に触れたリリィが目を丸くした。
「下がってます!」
周りから、いろいろな声が出た。
「すげぇ……」
「ほんとに効いとるぞ」
「神様や……」
「いや、悪魔だ……」
「どっちでもええ、息しとるんじゃ」
感謝と恐怖が、同じ皿に盛られたみたいに揺れる。
ルークはそれを背で受けて、何も言わず外へ出た。
「ありがとうございます!」という声と、「……大丈夫だよな」という小声が背中に交互に触れる。
リリィが追う。扉の前で、一度だけ中を振り返る。子どもが母の胸で泣き笑いし、老婆が深く頭を下げた。
外の空気は少し冷たい。西の空が赤くなり始めている。
村外れで火を起こした。パンの香りが風に混じる。遠くの家では夕食の支度が始まっているのだろう。火がぱち、ぱち、と小さく弾ける。
リリィが口を開く。
「さっき、手が震えてました。何が見えたんですか」
ルークは炎を見る。
「前の世界の断片。白い部屋。数字。赤い灯。咳……」
そこで一度、言葉を切った。
「……やっぱり、怖がられてるんだろうな」
リリィは足元の白い花を摘み、焚き火にかざす。花びらが赤く透け、灰になる。
「私は、怖くありません」
彼女は手を伸ばし、ルークの指を包んだ。
「震えるなら、握ります。今みたいに」
「俺は、また間違えるかもしれない」
「その時は止めます」
リリィは即答する。
「毒なら捨てる。謝る時は、一緒に頭下げます」
火の粉が宙に舞って消える。ルークの肩が少し落ちる。
「……ありがとう。君がいなければ、俺はまた逃げてた」
「逃げたら引っ張ります」
リリィは握る力を少し強めた。
「森を戻したあなたも、今日の笑顔も、私は見ました。数字じゃなく、目の前で」
短い沈黙。風が灰を揺らす。星がひとつ増えた。
「俺は薬を作るしかできない」
「それでいいです」リリィはうなずく。
「あなたが作るなら、私が渡します。怖がる人がいても、ひとりは笑います。今日みたいに」
ルークは小さく息を吐いて、うなずいた。
「明日、診療所に説明しよう。飲み方と注意。それと記録の付け方」
「はい。私も一緒に」
「それから……仕事の顔、少し練習する」
「それがいちばん大事です!」
二人で笑う。橙の光に、影が並ぶ。
救済と破滅の狭間を歩む旅は続く。けれど、もう一人ではない。夜は静かに深くなり、焚き火は穏やかに揺れ続けた。