第5話:数珠と偽りの恩人
病院の白い天井が視界に入った。
刹那がゆっくりと目を開けると、枕元に暁が座っているのが見えた。彼の顔には心配の色が浮かんでいる。
「気がついたか」
暁の声は優しかった。まるで昨日のプールサイドでの出来事など忘れてしまったかのように。
「アシスタントから聞いたよ。俺が君の回復を祈って、長年身につけていた数珠を託したそうだな」
暁は手首に巻かれた古い数珠を指差した。
「それに禁煙、禁酒、菜食も誓ったんだ」
刹那は数珠を外そうとした。
「返すわ。あなたのものでしょう」
しかし暁は彼女の手を取り、数珠を再び手首に巻き直した。
「君がつけていてくれ。昔、君が俺の回復を祈ってくれたように」
その言葉で、刹那の記憶が蘇った。
暁の足が不自由だった頃。二人で月詠院を訪れた日のこと。
境内の石段を車椅子で上がれず、刹那が暁を背負って本殿まで運んだ。汗だくになりながら、彼の健康を必死に祈った。
あの時の暁の目には、確かに自分だけが映っていた。
でも今は違う。蝶子がいる。
もうあんな日々は二度と来ない。
刹那は退院の手続きについて尋ねるため、病室を出た。廊下を歩いていると、暁と響の会話が聞こえてきた。
「暁、刹那との結婚式は盛大にやるんだろうな?」
響の声だった。
「ああ、月末には式を挙げる予定だ」
暁が答える。
「そういえば奇遇だな。敵対する龍胆家の人間も『氷室(ひむろ)刹那』という同姓同名の女性と近々結婚するらしい」
響の言葉に、刹那の足が止まった。
咳払いをして、二人の前に姿を現す。
「お疲れ様」
刹那は素っ気なく挨拶した。
退院後、自宅に戻った刹那のスマホに通知が届いた。
SNSの友達申請。送信者は「橋宗司(そうじ)」。
縁談相手だと察した刹那は、申請を承認した。
すぐにメッセージが届く。びっしりと書かれた結納品のリスト。そして「明後日、お母様とご一緒に空港へお迎えに上がります」という文面。
刹那は簡潔に返信した。
「結納品は十分です。ありがとうございます」
翌日。
暁が刹那のために独身パーティーを開いた。会場には多くの客が集まっている。
「刹那、君へのプレゼントだ」
暁は新しいスーパーカーのキーを差し出した。
「ありがとう」
刹那が受け取ろうとした時、暁は振り返って蝶子を呼んだ。
「蝶子ちゃん、君にもプレゼントがある」
暁は別のキーを取り出した。
「これは刹那のおさがりだが、全国限定版のランボルギーニ・スーパースポーツカーだ」
会場がざわめいた。刹那に贈られた車は、ごく普通で、やや高価なだけのスポーツカー。対して蝶子への「おさがり」は、遥かに価値の高い限定版。
客たちがひそひそと囁き始めた。
「暁さんが蝶子さんを特別扱いするのは、彼女が有名なレーサー『ゼロ』だからよ」
「命の恩人だから大切にしているのね」
「『ゼロ』って確か、暁さんを事故から救った人でしょう?」
刹那の手が震えた。
彼女はわずかに眉をひそめた。「ゼロ」?それは、私ではないか?