第7話:血と裏切りの決別
朝の光が窓から差し込んでくる。刹那がゆっくりと目を覚ますと、二階から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
暁と蝶子の声だった。
「暁さん、この花の生け方、とても上手ですね」
「蝶子ちゃんに教えてもらったおかげだよ」
刹那の胸に鈍い痛みが走った。
生け花を暁に教えたのは自分だった。八年前、車椅子生活で塞ぎ込んでいた彼を励ますために、毎日違う花を生けて見せた。やがて暁も興味を持ち、刹那が手取り足取り教えたのだ。
あの頃の暁は、毎朝必ず刹那のために花を飾ってくれていた。
「君の笑顔が一番美しい花だ」
そう言って微笑んでくれた日々が、今では遠い昔のことのように感じられる。
刹那は重い足取りで階下へ向かった。
その時だった。
「あら」
二階から蝶子の声が聞こえた。
「手が滑っちゃった」
次の瞬間、重い花瓶が刹那の頭上に落下してきた。
ガシャン!
鈍い音と共に、激痛が刹那の頭を襲った。大量の血が流れ出し、視界が真っ赤に染まる。
「きゃあ!大変!」
蝶子の声が響いた。しかし、その声には演技めいた響きがあった。
刹那は膝をついた。意識が朦朧としていく中で、蝶子の声が聞こえてくる。
「暁さん、どうしましょう。手が滑って花瓶が......」
「救急車を呼ぼう」暁の慌てた声。
「でも、私妊娠中だから、あまり騒ぎにしたくないの。それに......」
蝶子の声が小さくなった。
「刹那さん、自分で転んだって言ってくれるわよね?」
刹那は薄れゆく意識の中で、蝶子の冷たい笑い声を聞いた。
そして、全てが暗闇に包まれた。
病院の白い天井。消毒薬の匂い。
刹那が目を覚ますと、医師が診断書を手にしていた。
「頭部を三十針縫いました。軽い脳震とうと、右目の一時的な視力低下が見られます」
三十針。
刹那は包帯に包まれた自分の頭に手を当てた。
「刹那」
病室のドアが開き、暁が入ってきた。その顔には心配の色が浮かんでいる。
「大丈夫か?医師から聞いたよ。かなりひどい怪我だったそうだな」
暁は刹那のベッドサイドに座った。
「蝶子ちゃんも心配している。手が滑ったとはいえ、申し訳ないと泣いていたよ」
刹那は暁を見つめた。
「暁、お願いがあるの」
「何だ?」
「世間には、私が自分で転んだと言ってほしいの」
暁の表情が変わった。
「なぜそんなことを?」
刹那は静かに答えた。
「蝶子は妊娠中でしょう?こんなことで彼女を責めたくないの」
暁は安堵の表情を浮かべた。
「ありがとう、刹那。君がそう言ってくれて助かる」
そして暁は声を潜めて続けた。
「実は、蝶子ちゃんは俺の命の恩人なんだ。『ゼロ』という名前で俺を救ってくれた。だから、どんなことがあっても彼女を守らなければならない」
刹那の心臓が止まりそうになった。
『ゼロ』。それは自分のことではないのか?
その時、看護師が慌てて病室に入ってきた。
「夜神さん、蝶子さんが泣き崩れていらっしゃいます。すぐに来てください」
暁は立ち上がった。
「刹那、すまない。すぐに戻る」
暁は刹那を置いて、急いで病室を出て行った。
一人残された刹那のスマートフォンに、メッセージが届いた。
送信者は蝶子だった。
「お疲れ様でした♪」
そして動画が添付されている。
刹那は震える手で動画を再生した。
画面には、泣いている蝶子を慰める暁の姿が映っていた。
「大丈夫だよ、蝶子ちゃん。君は悪くない」
暁が優しく蝶子の髪を撫でている。
「でも、刹那さんが怪我を......」
「刹那はただ頭を怪我しただけだ。大した問題じゃない。彼女が君が彼女を傷つけたなんて公表するわけがない。今、妊娠しているんだから、体を大事にしろ。こんな些細なことで心配するな」
動画が終わった。
刹那の手からスマートフォンが滑り落ちた。
些細なこと。
三十針縫った頭の傷が、些細なこと。
刹那は静かに立ち上がった。点滴の管を外し、病院着のまま病室を出る。
空港への出発まで、あと六時間。
刹那は月詠院へ向かった。
境内の願い事を書く短冊が吊るされた竹に、自分が書いた短冊を見つけた。
「暁の足が完全に治りますように」
刹那はその短冊を手に取り、静かに破り捨てた。
そして、隣に吊るされた二枚の短冊に目を留めた。
一枚目:「刹那との結婚が上手くいきますように」
二枚目:「蝶子ちゃんと子供が健康でありますように」
どちらも暁の筆跡だった。
刹那は冷たく笑った。
二心を持つ男の願い事。
刹那は別荘に戻ると、机に向かって手紙を書いた。
「暁へ
八年間、ありがとうございました。
あなたの幸せを心から祈っています。
氷室刹那」
手紙と共に、婚約指輪を小さな箱に入れた。そして、もう一つ。古い写真を封筒に入れる。
八年前、海で溺れそうになりながら暁を救った時の写真。新聞に載ったもので、記事には「謎の救助者『ゼロ』」と書かれていた。
執事の柏木が現れた。
「お嬢様、お出かけですか?」
「柏木さん、これを暁に渡してください」
刹那は手紙と指輪、そして写真を柏木に託した。
「私はもうここには戻りません」
刹那はスーツケースを引いて、生まれ育った家を後にした。
空港で、親友の月城莉緒(りお)が待っていた。
「刹那、本当に行くのね」
「ええ。新しい人生を始めるの」
莉緒は刹那を抱きしめた。
「幸せになって」
刹那は振り返ることなく、搭乗ゲートへ向かった。
帝都の夜景が窓の下に広がっている。
刹那は静かに呟いた。
「さようなら」
その頃、別荘では暁が帰宅していた。柏木から手紙を受け取り、封を開ける。
婚約指輪が転がり落ちた。
そして、もう一つの封筒から出てきた写真を見た瞬間、暁の顔が青ざめた。