「希子がまだ話し終える前に、その携帯は高橋健太に取り上げられた。
「高橋様、そんな大事なものは携帯に保存していません。私を解放して、Z国から安全に出られるようにしてくれれば、誓って録画をお渡しします」
「近藤...」
高橋健太が近藤の名を呼ぼうとした時、けたたましい警報音が鳴り響いた。
「社長、病院で火事です。すぐに避難しないと」
近藤雅也が急いで近づいてきた。
「どうしたんだ?」
「状況はまだ把握できていません」
「祖父は?」
高橋健太が真っ先に高橋様のことを心配した。
「ボディーガードにすでに高橋様を探しに行かせました。社長、早く一緒に避難しましょう」
近藤は希子を支えながら、高橋健太と共に非常階段から急いで避難した。
一行は総合病院の正面玄関まで退避した。入り口はすでに人でごった返していて、見渡す限り医師や看護師、それに病衣を着た患者たちだった。
「社長、状況が分かりました。入院患者のひとりがうつ病を発症して、病院の倉庫から医療用アルコールを盗み、病院中で放火したそうです。犯人はすでに捕まりましたが、火はまだ鎮火していません」
近藤は状況を確認した後、報告してきた。
「祖父!」
高橋健太は車椅子に座っている高橋様を見つけると、急いで駆け寄った。
「ああ、小さな看護師はどこだ?」
高橋様は心配そうに、高橋健太を押しのけて人混みの中から宮崎葵の姿を探していた。彼女は先ほど休暇を取りに行くと言ったばかりで、まだ戻ってきていなかった。
病院の大半の人はすでに避難していたが、小さな看護師の姿は見当たらなかった。
「小さな看護師」という言葉を聞いて、高橋健太の脳裏に葵の姿が浮かんだ。
心臓の鼓動が速くなり、背の高い健太は人混みを見渡して、あの見慣れたシルエットを探した。
しかし、しばらく探しても葵の姿は見つからなかった。
アルコールの影響で火の勢いは急速に広がり、病院内部は煙が渦巻いていた。消防車はまだ到着せず、避難してくる人はどんどん少なくなっていった。
健太は眉をひそめ、近藤に尋ねた。
「まだ病院に残っている人はいるのか?」
「ほとんどの人は避難したと聞いています。一部の人だけがまだ中にいるようです。火の勢いが最も強いのは1階の女子トイレと薬局だと」
薬局。
近藤の言葉が終わるか終わらないかのうちに、健太の表情が険しくなった。
小さな看護師は、確か薬局で働いているはずだ。
次の瞬間、近藤は呆気に取られた。
「社長!社長、何をするんです?社長、戻ってください!」
近藤は自分の上司が体に水をバケツ一杯浴びせると、そのまま火災現場に飛び込んでいくのを見た。
「葵?由紀?」
松本彰人は焦りながら人混みの中から葵と由紀の姿を探していた。彼は真っ先に避難したが、宮崎姉妹はまだ出てきていなかった。葵は薬局で勤務しているはずで、由紀はちょうど女子トイレに行ったところだった。
松本は歯を食いしばり、中に駆け込もうとした。
「松本先生、火の勢いが強すぎます。中にはまだアルコールがあって、一歩間違えれば爆発します。冷静になってください。消防車がもうすぐ到着します」
周りの医師や看護師たちが松本を引き止めた。
松本は説得を聞かず、火災現場に飛び込んだ。
病院内部は、外から見るよりもはるかに火の勢いが強かった。
炎は猛威を振るい、濃い煙と熱波が顔を打ちつけた。松本は中に入ると、必死に宮崎姉妹の姿を探そうとした。
「左が女子トイレで、右が薬局だ」
松本の額には汗が浮かび、空気の温度はすでに限界点に達していた。すぐに出なければ、爆発する危険があった。
由紀を救うか、それとも葵か?
どちらかを救えば、もう一人を救う時間はなくなるかもしれない。
松本は足を止め、どう選択すべきか迷っていた。
背後から、ある人影が弾丸のように薬局の方向へ走っていった。少しのためらいもなく。
松本は相手の姿をはっきり見ることさえできなかった。
その人が向かったのは、薬局の方向だった。
松本がためらっていると、女子トイレの方から泣き声が聞こえてきた。
「うぅ...助けて」
由紀の声だった。松本は女子トイレの方へ走り出した。
「小さな看護師!葵!」
健太は中に飛び込んだとき、ためらうことなく叫んだ。
彼は病院に詳しくなく、数歩走ると、何度も火が彼の行く手を阻もうとした。
彼は葵の名前を呼びながら、薬局を探し続けた。
しかし薬局の近くには誰も見当たらなかった。
火はますます強くなり、1メートル先のものさえ見えなくなっていた。
健太がさらに前に進もうとすると、ついに前方に人影を見つけた。
「葵!」
健太は一歩踏み出し、葵を引き上げた。
葵は顔が真っ青で、健太を見た瞬間、彼女は驚いた。
「健太?」
葵が「どうしてここに?」と聞こうとした時、吐き気が込み上げてきて、身を屈めて嘔吐し始めた。
彼女は途中まで逃げたとき、突然具合が悪くなった。
妊娠してから、これが初めての悪阻だった。
まさか、放火に遭うとは。
「妊娠してるのか?」
葵がお腹を守るように嘔吐している様子を見て、健太はようやく気づいた。
彼は葵のお腹を見つめ、表情は暗くなり、葵を見つけた時の喜びは消え去った。
「妊娠してるのに見合いに来たのか?」
葵が否定しないのを見て、健太は突然怒りを覚えた。
思いもよらなかったが、あの友人たちの言っていたことは本当だった。看護師は遊び人で、未婚で妊娠しているのに彼に責任を押し付けようとしている。
「あなただって恋人がいるのに見合いに来たじゃない。みんな相応しい演技をしてるだけよ、真剣になる必要ないでしょう」
以前、健太が希子を脅して彼女のお腹の子供を下ろしてDNA検査をすると言ったことを思い出し、葵はさらに胃の不快感が増した。彼女は顔をそむけ、意地を張って言った。
「こんな口の利き方ができるのは、お前が初めてだ。葵、よくやったな」
健太は腹を立てて踵を返した。
数歩歩くと、後ろの女性はまだ嘔吐していた。
健太は拳を握りしめ、そしてまた開いた。彼は振り返り、葵の元へ急いで戻った。
葵が反応する間もなく、彼女の体は宙に浮いた。
「あなた!」
葵が驚いて声を上げた次の瞬間、彼女はすでに健太にプリンセス抱っこで抱えられていた。
妊娠すると太るはずなのに、この女、どうしてこんなに軽いんだ?
健太は顔を引き伸ばし、密かに不満を抱いた。
彼が見下ろすと、葵の白い肌が火事の煙で赤くなっていた。彼は目を伏せた。この女は顔だけはまあまあ整っている。もし火事で醜くなったら...彼は水で濡らした自分のシャツを脱ぎ、葵の上に掛けた。
「私を下ろして」
葵の顔は健太の裸の上半身に寄りかかり、彼の服を羽織り、彼の心臓の鼓動を明確に聞くことができた。
彼女の顔はますます赤くなり、茹でたエビのようだった。
しかし健太はまったく聞く耳を持たなかった。
薬局から病院の正面玄関まで、わずか10数分の道のりだったが、葵にはとても長く感じられた。
正面玄関に近づいたとき、近藤がボディガードを数人連れて中に駆け込もうとしていた。
「社長!よかった、やっと出てきましたか」
近藤は健太が誰かを抱えているのを見て、急いで葵を受け取ろうと手を伸ばしたが、上司から鋭い視線を投げられ、近藤は恐れをなして手を引っ込めた。
安全な場所に着くまで、葵は下ろされなかった。
葵はまだ健太のシャツを羽織っていた。そのとき、彼女は近くで誰かが尋ねるのを聞いた。
「松本先生、由紀さん、大丈夫ですか?」