「やった、やったよ、ルカちゃん!」
実に一週間ぶりとなる大はしゃぎの声の主が、ノックもなしにぼくのいる部屋のドアを開いた。
そのとき、ぼくはいつもみたいに手伝いの縫い物をしていた。そこに、いきなり大声が飛び込んできたものだから、びっくりして針で指を浅く刺してしまった。
痛、という声は押し殺して、ぼくは飛び込んできた彼女へと目をやる。
いかにも女の子らしく伸ばした水色の髪に、喜びをたたえた陽光みたいに金色の瞳。
エメ・アルジェライト。ぼくの、つまりルカ・アルジェライトの双子の妹。
「おかえり、お疲れさま、エメ。その様子だと、無事に合格したみたいだね?」
「うんっ! 合格も合格、なんと、首席合格でーすっ」
ぶい、と差し出されたピースマークを目の前に、ぼくは目をまんまるに見開いてしまった。
首席。つまり、トップ。
なんと、エメはこの国でも有数の魔術学校たる“セレスティア”の入学試験で一番の成績を叩き出したのだと、そういう話らしい。
いくら魔術の扉は万人に開かれていると謳われていたって、やっぱり、魔術学校は貴族の学校だ。倍率も高い。
そんな中、平民も平民のエメがトップ。
とんでもない話だった。
すぐに村中の、どころかここ一帯の、もしかすると国中のニュースになるかもしれないくらいには、とんでもない話だった。
「そりゃ……すごい、ね」
ぼくの反応に、エメは小首をかしげる。
「んんー……ルカちゃん、あんまり嬉しくなさそう?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、驚いちゃってさ」
「嘘だー、嬉しくなさそうだよ。わたしに隠し事しようとしてもムダだからね、ルカちゃん」
ずずいと物理的に詰め寄られ、ぼくは降参とばかりに両手を上げた。
「悪かったよ。ただ、その……心配でさ」
「わたしが魔術学校に通うのが?」
「いや。それは別に、エメは要領いいし。そうじゃなくて、卒業後のこと」
きょとんとしてしまった妹へと、ぼくは少し気まずいような思いで説明をする。
「首席合格ってことはさ、やっぱり目をつけられるだろ。エメなら成績も良いだろうし、そうしたらきっと、将来は王立の魔術師団あたりにスカウトされるだろ」
「まあ、自然にいけばそうなると思うけど。うーんと、魔術師団がダメなの? 花形も花形、お給料ものっ凄いらしいよ」
「でも、死ぬかもしれない」
誤魔化しも隠しもせず、ぼくははっきりと口にした。
そうする必要がある、と思った。
王立魔術師団。
国が直々に雇う、エリート魔術師の集まりだ。
その仕事は至ってシンプル。
触獣《クラック》と戦うこと、それだけ。
触獣《クラック》。この星に時折現れる、闇を滲ませたような怪物の名前だ。
それは、万物を記録する星録《レコード》と、そこに刻まれた“コード”を壊す存在で、つまるところ、世界を滅ぼしかねない存在である。
ぼくも実物は見たことがないけれど、その恐ろしさは童話や噂やニュースという形でいくらでも聞いたことがある。
エメだって、そうだろう。
そんな怖くて危ない仕事に、将来エメが、妹が就くかもしれない。
そう考えれば、やっぱりぼくは、手放しで首席合格の話を喜べなかった。
「んもう、心配性だなあルカちゃんは。この話して狂喜乱舞しなかったの、今のところルカちゃんだけだよー?」
「他には、誰に話したの?」
「村長さん家とか、お隣のウォッチャーさんとか、あとは王都で泊めてくれた村長さんのお友達とか」
エメが、無理やり椅子に座るぼくの足の間に体を押し込んできた。そのまま、こちらを振り返ってふふっと笑う。
金色の瞳がきらりと光る。
なんだか、急に恥ずかしくなった。
だって、ぼくにできるのは心配だけだ。もし、いつかエメが危ない目に遭ったって、助けてやることなどできないのだ。
「ごめん。せっかくめでたい話なのに、水を差すみたいで……」
「ううん、謝らないで。だってさ、心配してくれたの、今のところルカちゃんだけだもの。わたしは嬉しいよ」
「そう……?」
あ、とエメが声をあげた。
「ちょっと、ルカちゃん怪我してるじゃん! どうしたの、これ」
怪我? と疑問に思ったが、先ほど縫い針で刺した傷のことだった。そういえば忘れていた。
思ったよりも深かったらしく、赤い血がぷっくりと珠になっている。
「ああもう、ちゃんと洗わないとダメだよ。いくら魔術でも、怪我を治したりはできないんだから」
「ごめん……」
「ほら、動かない。【透き通る/流るる/清きよ/満たすものよ/在れ】」
エメの瞳が光る。
唱えられたコードに星録が反応する。
机に置いてあった空の木製コップの中へ、虚空からばしゃんと水が注がれた。
ぼくは、その水で傷口を綺麗に洗う。
「やっぱ、凄いね」
「魔術が?」
「エメが」
「えっへへー」
嬉しそうな妹の頭を、ぼくは洗いたての手で軽く撫でてやった。
姉とはいっても、やってやれることはこのくらいだ。
「でも、寂しくなるな」
さらさらの髪を手で梳きながら、ぼくはその感触を覚えておこうと頑張ってみる。
エメはきょとんと首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって……この村から、セレスティアのある王都は遠いし……エメ、寮に住むことになるだろ。離れ離れは寂しいよ」
夏季と冬季の休暇だって、毎回帰ってくるほどの余裕はないかもしれない。
妹の躍進が、ぼくにはどうにも寂しかった、のだけれど。
「え? ルカちゃんも一緒に王都だけど」
「え?」
「だから、ルカちゃんも一緒に行くんだよ?」
どういう冗談かと思ったけれど、冗談ではないらしい。エメは至極真面目な顔だ。
「あのねえルカちゃん、なんで、わたしがこーんなに勉強を頑張ったと思う? ルカちゃんとの時間まで削ってさ」
「そりゃ、セレスティアに入学するためだろ……?」
「ぶぶー。正解は、ルカちゃんと村を出ていくためでしたー」
エメが、くるりと体ごとこちらを向く。
そのままぎゅーっとぼくに体を押し付けてきて、ぼくは、どうしてこの子はぼくと全くおんなじ顔なのにこんなに愛しいんたろうかと、そんなことを思った。
「首席合格は、学校から費用が支給されるの。寮じゃなくてアパート借りて、そこで一緒に住むくらいはできるよ」
「はあ……そりゃ、凄いね」
「でっしょー。えへへ、ルカちゃん嬉しそう。あ。食費分くらいは働いてもらうけどね?」
むにむに、と頬を揉まれる。
ぼくは身を捩ってエメから逃れると、血を洗った水入りのコップを持って流しに向かう。
「やっぱり、エメは凄いね。自慢の妹だ、ぼくなんかにはもったいないくらい」
「ルカちゃんも、自慢のお姉ちゃんだよ? わたしなんかにはもったいないくらい」
「そうかな」
「うん。そうだよ」
そっか、とぼくは笑って、あとひと月もすれば始まるのだろう新たな生活を思った。
この村は生まれ育った場所ではあるけれど、とりたてて愛着はない。ぼくの帰る場所はエメのいる場所で、エメの帰る場所はぼくのいる場所だった。
家が王都に移ったって、きっと、それは変わらないだろう。
いくらエメが首席で天才で神童だとしても、ぼくにとっては可愛い妹で、たった一人きりの大切な家族だ。
将来的に魔術師団に入るならば凄いことだけれど、別に、入らなくったっていい。
数は少ないし給料もがくっと落ちるけれど、魔術師には戦闘職以外の働き口だってあるのだ。いっそ、魔術職じゃあなくたって構わない。
このまま二人で生きていけるのなら、それはとっても素敵なことだな、とぼくは笑った。エメも笑った。
「エメは学園があるだろうから、ぼくが家事をしようかな」
「ええー。ルカちゃんお料理できるの?」
「マイヤさんにひと通り叩き込まれたよ。ああ、でも街はパン焼きの窯がないよな。キッチンはあるよね?」
「そりゃあるだろうけど、レストランなんかもたくさんあると思うよ?」
「そっか、街の人は外で食べるのか……。うちの村なんて、酒場くらいしかないものなあ」
ぼくたちは、一緒に幸福な未来を思い描いていた。
それは絵空事なんかではなくって、程なくして訪れるはずのごくごく近い未来のはずだったんだ。
この瞬間のぼくたちは、まったく想像していなかった。
数日後に、村の近くに蝕獣《クラック》が出没することも。二人での散歩中、偶然それに出くわしてしまうことも。鋭い牙と俊敏な脚を持つそれから二人ともが逃げ延びることは不可能であることも。
†
一番大切なかたわれが、自分のために死ぬことも。
許せなかった。
奪われた理不尽も。失った無力感も。守られた自分自身も。全部全部、許せなかった。
だから、誓ったのだ。
何があっても絶対に、彼女の人生を消させはしない、と。
ルカ・アルジェライトはセレスティア魔術学園へ行く。
そうしなければいけなかった。
この世界のどこを探しても、蘇生魔術は存在しないのだから。