澪は手に握った妊娠検査薬を見つめ、膝が震え、力が抜けて床に崩れ落ちた。
藤原直哉とのあの激しい夜以来、彼のことを一度も思い出すことはなかった。
心の奥底に鍵をかけ、その記憶を封じ込めていた。
——数日前までは。体の調子が妙におかしい。生理が二週間以上も遅れている。その瞬間、胸の奥で小さな疑念が芽生えた。
そして今日、ついに検査をした。
「あ……あぁ、神様。どうすれば……」
震える手の中で、検査薬の結果を見つめる。心臓が、胸の奥で暴れていた。
「コン、コン」
その音に、澪の体がびくりと跳ねた。
慌ててドアの方を向き、検査薬を背中に隠そうとする。
だが、膝が崩れ、立ち上がれなかった。
「姉さん、いるの?夕食できたよ。みんな待ってる」
ドアの向こうから、莉緒の少し苛立った声が響く。
「今行くわ……」
……
澪にとって、その夜の夕食は地獄だった。
目の前の料理はどれも美味しそうなのに、口に入れても砂のように味がしない。
今すぐ父に打ち明けたい。妊娠のことを話して、縁談を取り消してほしい。明日の林田家との会食も、全部やめてほしい。
けれど、父が国内最大の医療グループとの提携に興奮しているのを見て、言葉を飲み込んだ。
この瞬間、祈りだけが彼女の拠り所だった。
どうか、父が彼女の将来の夫である林田大志(はやした たいし)の話をやめてくれますように——。
もちろん、その祈りは届かなかった。
その直後、妹の莉緒の言葉に、澪はその場から消えてしまいたいと思った。
「姉さん、羨ましいなぁ」
莉緒が頬をふくらませながら、瞳を輝かせて澪を見つめる。
「だって大志さんって、若手の脳外科医の中でも天才でしょ?うちの学部じゃ、ほとんど神様扱いだよ!」と彼女は続けた。
「そうね、莉緒の言う通りだわ」
継母の静香が微笑み、澪を誇らしげに見た。
「友達と話すといつも、みんな彼の話ばかりなの。林田家が澪をお嫁さんに選んだって聞いたとき、本当に嬉しかったわ」
そして静香は莉緒に向き直る。
「莉緒も頑張って勉強しなさい。いつか莉緒も、別の天才医師と結婚できるかもしれないのよ。お父さんはすでに医療分野への投資を約束しているわ。ねえ、拓海さん?」
小野拓海は喉を鳴らし、妻の言葉にうなずいた。
「もちろん、母さん……私も頑張ってるもん」と莉緒は笑い、デザートを頬張る。
家族が婚約話に花を咲かせる中、澪の心は言葉のひとつひとつで沈んでいった。
責める気にはなれなかった。林田大志は、幼い頃から知る人物だった。知的で、親切で、誰からも尊敬される紳士。
——だが、二人の人生はいつしか別の道を歩き始めていた。大志は医療キャリアに集中し、彼女は家業に没頭した。
大志が彼女を選んだと知ったとき、澪は驚いた。
医療関係者と結婚すると思っていた彼が、自分を——。
婚約の話し合いをする機会もなかったが、反対する理由もなかった。25歳。そろそろ身を固める時期。恋人もいない。
でも今は違う。彼女は妊娠している。
どうやってこの婚約を続けることができるだろうか?
しかも妊娠しているだけでなく、その子の父親は、父の最大の宿敵・藤原家だった。
「どうやって父さんと話せばいいの?」
澪は小さく息を吐き、うつむいた。動揺を悟られないように、冷静を装う。
小野拓海の視線は澪に釘づけになっていた。フォークを握る彼女の指がかすかに震えていること、そして料理にほとんど手をつけていないことに、彼はすでに気づいていた。
「澪?」穏やかな声の中に、鋭さがあった。
「何か問題でもあるのか?」
テーブルの空気が一瞬で張り詰めた。
家族全員の視線が、彼女に向けられる。
澪は顔を上げた。目を見開き、沈黙の中に取り残される。喉が締めつけられ、もう、嘘はつけなかった。
「……大志とは結婚できません」
澪は小さく息を吸い、絞り出すように言った。
沈黙。
静香はまばたきを一度した。
「澪、何を言ってるの?」
「言ってるのは——」
澪は息を震わせた。
「婚約を受け入れられないってこと。私……妊娠してるの」
空気が凍りついた。
フォークが宙に止まった。
莉緒が息を飲む。
拓海がゆっくりと身を乗り出した。表情は読めない。
「妊娠だと?」
「……はい」澪は小さくうなずき、かすれる声で答えた。
「父親は誰だ?」
拓海の声は冷えきって重く、空気を凍らせた。
澪の唇がかすかに開いたが、声は出なかった。彼女は視線を落とし、その沈黙がテーブルを張り詰めた緊張で包み込んだ。
澪はやっと口を開けた。
「それについて話す準備は、まだできていません……」
ようやく絞り出した言葉に、静香が胸に手を当てる。
「澪、どのくらい経ってるの?」
「四週間……もしかしたら五週間くらい……」と彼女はささやいた。
莉緒は呆然として澪を見た。
「嘘でしょ、お姉さん?ふざけてるだけだよね?」
「そうだったら、どれだけよかったか……」
罪悪感をにじませる声が、誰の心にも重く響く。
「でも本当なの」
言葉のない沈黙が続く。ダイニングテーブルを囲む空気は、さらに冷え込んでいった。
澪はうつむいたままだったが、父の視線が鋭く彼女を貫いているのを肌で感じていた。
「名前を言え……」
小野拓海の声は低く重かった。
澪はその視線を受け止め、唇を震わせながら目を上げた。
「ごめんなさい……言えません、お父さん……」
「言え」
その声は部屋中に響き渡る。
「お前はこの家にいて、そんなことを言い出しておいて、何の説明もしないつもりか?」
「拓海さん、お願い、怒らないで……」
静香が彼の手を取ろうとする。
彼はそれを振り払った。
「やめろ。今は……静香……」
その視線は一瞬たりとも澪から離れない。
「誰なのか言え。今すぐだ。俺が自分で見つける前にな」
澪は口を開いたが、言葉が出てこない。心臓の音が大きすぎて、呼吸すらできなくなりそうだった。
父の目に燃える怒りが見えた。ゼロから帝国を築き上げ、ほんの些細なことで敵を叩き潰してきた男の姿がそこにあった。
もし彼女が藤原直哉の名を口にすれば。
ほんの一言でも。
父は彼を破滅させるだけでは済まない。きっと殺す。そしてそのあとで、恥と不純をこの家にもたらした娘である自分にも手をかけるかもしれない。
「……言えません」
声はかすれ、震えていた。
「お願い……私を尊重して、お父さん。私はもう子供じゃない、大人なの……!」
その瞬間、拓海の拳がテーブルを打ちつけた。全員がびくりと身を縮める。
「なら選ばせてやる。お前はそうされたいようだからな」
彼はゆっくりと立ち上がった。その姿は、長年この家を支配してきた男の圧倒的な威厳をまとっていた。
「大人として振る舞いたいなら、聞く耳も持て。お前には二つの道がある、澪」
澪の息が止まり、震える目で怒り狂った父を見上げた。
「一つ。医者に行って、その腹の中の小悪魔を消し去れ。そして林田との婚約を進めるんだ。我々はお前の未来を、お前の名を、この家族の中での立場を守る」
一言一言が、裁定のように重く、冷たく響く。
「拓海さん、どうして……」
静香はその言葉に打ちのめされ、言葉を継ぐことができなかった。息を詰まらせ、信じられないという表情で夫を見つめる。
莉緒もまた、母と同じように衝撃を受けて息を呑んだ。
澪の胸は張り裂けそうだった。父がそんな言葉を口にするなんて――信じたくなかった。彼女の拳はテーブルの下で強く握られていたが、声には出せなかった。父の言葉は止まらない。
「二つ目。それを産むなら、ここを出ていけ。何も持たずにな……もう小野澪ではいられない。家族も、相続も、助けもない。お前と、お前の恥だけだ」
「拓海さん!」
静香の声が震える。切実な願いがにじんでいた。
「彼女は私たちの娘よ……お願いだから……」
「もう彼女は自分で決めたんだ」
拓海の声は唸りのように低く、決して覆ることはなかった。
「だから今度は俺が決める」
澪は動けなかった。足は地面に縫いとめられたかのように重く、口の中はカラカラだった。
莉緒は固まったまま、目に涙を浮かべていた。
「明日、林田家との夕食の後までに時間がある」
拓海は冷たい声でそう言い残し、すでに背を向けていた。
「決めなさい」
そうして彼は出ていった。澪だけを、もはや家とは呼べないこの場所に残して。