高層ビルを出た物部詩織の思考は混乱したままだった。
彼女は大学を無事に卒業して、息子をきちんと育てることしか考えていなかった。墨田和希のような名家の御曹司と関わることなど全く想像していなかった。
しかし今、彼女には他に選択肢がないように思えた。
もし墨田和希と協力しなければ、安心して大学に通い続けることができなくなる…
「物部詩織!」
玄関で長い間待っていた物部柔奈は、詩織が出てくるのを見るとすぐに顔を曇らせて道を塞いだ。
「本当に驚いたわ。まさかあなたがそんなに男を誘惑するなんて。墨田の若様まで口説くなんて、見くびってたわ!」
怒り狂う柔奈の様子を見て、詩織は可笑しくなった。
「どう?悔しい?でも私とあの墨田大社長がこうなったのは、あなたという良き妹が取り持ってくれたおかげじゃない?」
柔奈はその言葉を聞いて一瞬固まった。
「物部詩織、何を言ってるの!はっきり言いなさいよ!」
「もう話すことは何もないわ」
詩織は失望した目で柔奈を見て、身を翻して歩き出した。
「詩織、墨田の若様は私が狙ってる人なの。私から奪わないほうがいいわよ。さもないとあなたが未婚で子供を産んだことを墨田の若様に話すわ。それに昨夜、あなたが他の男とやっていたことも、全部墨田の若様に言ってやるわ!」
柔奈は詩織の美しい後ろ姿を睨みつけ、脅しをかけた。
詩織はゆっくりと足を止め、繊細な横顔を向けて笑みを浮かべながら、険しい表情の柔奈を見た。
「そうね、彼に話してみたら?もしかしたら彼からご褒美がもらえるかもよ」
淡々と言い放ち、詩織は気さくに身を翻して去っていった。その場に怒りと恥ずかしさで顔を赤くした柔奈を残して。
「あんた…物部詩織、覚えておきなさい!」
——
詩織は物部辰哉を病院から迎えに行き、他に選択肢がない状況で、息子を幼稚園に送るしかなかった。
午後は授業がなく、詩織はできるだけ早く適当な賃貸物件を見つけたいと思っていたが、途中でアルバイト先の店長から電話がかかってきて、仕事に戻らざるを得なくなった。
詩織がアルバイトしているのは、市内中心部の広場にあるスイーツとアイスクリームのお店だった。そのため常に忙しく、その分給料も悪くなかった。
わずかな貯金のために、彼女は一生懸命アルバイトをするしかなかった。そうしてこそ、自分の学費と息子の成長に必要なお金を支払うことができるのだから。
時間に追われていたので、詩織は地下鉄を降りてから小走りに進み、広場に入ろうとしたとき、右側から突然小柄な人影が飛び出してきた。ブレーキをかける間もなく、詩織とその小さな女の子は正面衝突してしまった。
「バン!」という音と共に、二人は同時に地面に倒れた。
詩織は痛みに眉をしかめながら、ゆっくりと起き上がった。
顔を上げると、極めて愛らしい小さな顔が目に入った。その弧を描いた眉、水晶の葡萄のように美しい大きな瞳、精巧で小さな五官がまるで彫刻のようにこの陶磁器のような小さな顔に刻まれていて、まるで人形のように人の心を驚かせるほど美しかった。
その小さな顔を見つめていると、詩織は奇妙にもぼんやりとした気持ちになった。そして急いで地面に座っている小さな女の子のところへ行き、彼女を助け起こした。
「ねえ、大丈夫?痛くない?」
詩織は心配そうに尋ね、手を伸ばして女の子の白いドレスについたほこりを優しく払った。
小さな女の子は首を横に振り、水のように澄んだ大きな瞳に言葉にできない何かの委託を湛えて詩織を見つめた。
詩織はその視線に心臓がドキドキし始め、何かがおかしいと感じた。
彼女は周りを見回したが、行き交う人は多いものの、この小さな女の子の家族らしき人はいないようだった。
「お父さんとお母さんはどこにいるの?」
「ママ」
「……え?」
詩織は驚いて美しい瞳を大きく見開いた。ママ?これは彼女をママと呼んだのだろうか?