第7話:決別の朝
階下に降りると、怜が台所で食事の準備をしていた。
エプロンを着けた後ろ姿は、かつて結衣が憧れた理想の夫の姿そのものだった。だが今は、すべてが空虚に見える。
「おはよう、結衣」
怜が振り返り、甘い声で微笑みかけた。
「昨日のことは忘れよう。栄養士の件だが、全員残せばいいんだ」
結衣は無表情で怜を見つめた。
「蛇喰さんが連れて行った桜井さんも含めて?」
怜の手が止まった。皿を持つ指先が微かに震えている。
「それは……」
「あなたは桜井さんに『毎日食べるのは簡単だよ』と約束したのでしょう?」
結衣の声は氷のように冷たかった。
怜の顔が青ざめる。そして次の瞬間——
「いい加減にしろって言ってるだろ!」
怜が激昂した。結衣が二十年以上の付き合いで初めて聞く大声だった。
皿が手から滑り落ち、床で砕け散る。
結衣は何も言わず、玄関に向かった。
背後で食器の割れる音が続いている。
――
深夜に帰宅した結衣は、リビングのソファに魅音が座っているのを発見した。
「朽木社長は出張です。私は仕事で来ただけ」
魅音が慌てて弁解する。だが結衣は一言も発さず、二階へ上がっていった。
魅音の存在など、もはやどうでもよかった。
――
翌日の夕方、怜が帰宅した。
結衣が寝室にいると、魅音を伴って部屋に入ってきた。
「荷造りを手伝ってもらう」
怜の説明は簡潔だった。
魅音はクローゼットの中を物色するように眺めている。高級スーツや宝飾品に、露骨な欲望を浮かべていた。
「南の島へ数日出張する」
怜が結衣に告げる。
「来たければ一緒に来い」
その時、魅音がスーツケースに躓いた。
「危ない!」
怜は駆け寄り、魅音を抱き寄せるようにして支えた。
「怪我はないか?」
過剰な心配ぶり。結衣の目の前で繰り広げられる芝居だった。
「お二人で楽しんできてください」
結衣は淡々と告げた。
怜の表情が不機嫌に変わる。思惑が外れたのだ。
「行くぞ、魅音」
怜は魅音を連れて部屋を出ていった。
――
一人残された結衣は、薬を飲んで眠りについた。
夢の中で、若い頃の怜が現れた。
まだ自分だけを求めてくれていた頃の怜。優しい瞳で結衣を見つめ、「君だけだ」と囁いていた。
幸せな記憶の断片が、夢の中で蘇る。
やがて結衣は目を覚ました。
枕は涙で濡れていた。暗闇の中で結衣は目を開き、心の中で問いかけた。
——怜、あなたはまだこんな夢を見るのだろうか?