第3話:地獄への誓い
浴室から出た葵を、零司が心配そうな表情で迎えた。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
優しく抱きしめる腕の中で、葵は夫の胸に顔を埋めた。十年間慣れ親しんだ体温。だが今は、その温もりさえも偽りに感じられる。
零司のスマートフォンが振動した。
メッセージの着信音。葵には聞こえているが、零司は気づいていない。画面に表示された送信者名――「依恋(いれん)」。
そして写真。
ベッドに横たわる女の、挑発的な姿。
【寝室でご主人様をお待ちしてます】
葵の胃が再び痙攣した。だが今度は嘔吐ではなく、怒りによるものだった。
「葵、少し横になった方がいい」
零司は葵をベッドまで運び、毛布をかけてくれた。その手つきは確かに優しい。だが同時に、スマートフォンを確認する視線は明らかに焦っていた。
「会社で急ぎの用事が入った。すぐに戻るから」
見え透いた嘘。
葵は目を閉じ、寝息を立て始めた。完璧な演技だった。
零司がベッドサイドに置いた水のコップに手を伸ばす音。そして、スマートフォンを操作する微かなタップ音。
【葵を寝かしつけたら行くよ】
返信メッセージを送る音を、葵は聞き逃さなかった。
零司の足音が遠ざかる。ドアが静かに閉まる。
葵は目を開けた。
ベッドサイドの水のコップは、もうすっかり冷たくなっていた。
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階段を降りる足音を殺しながら、葵は一階へ向かった。十年ぶりに見る我が家の廊下。暗闇の中でも、すべてがはっきりと見える。
一階の奥から、くぐもった声が聞こえてきた。
男女の戯れ声。
葵の足が止まった。心臓が激しく鼓動している。
寝室のドアに近づく。わずかに開いた隙間から、室内の様子が見えた。
ピンク色のカーテン、レースのクッション、薔薇の造花――この部屋の装飾は、明らかに女性の趣味だった。そして、その豪華さから察するに、少なくとも一年以上前から準備されていたものだ。
ベッドの上で、零司と依恋が絡み合っていた。
葵の爪が掌に食い込んだ。
「奥様?」
背後からの声に、葵は振り返った。夜勤の家政婦だった。
「あ、あの……」
家政婦の驚いた表情。そして、その瞬間に響いた物音。
寝室のドアが勢いよく開き、零司が飛び出してきた。慌ててバスローブを羽織り、依恋を部屋の奥に押し戻す。
「葵……何を……」
零司の顔は青ざめていた。
「葵、何か、聞こえた?」
その問いかけに、葵は首を振った。完璧な、何も知らない妻の表情で。
「ううん、喉が渇いてただけ」
嘘だった。だが、この嘘こそが葵の武器だった。
零司は安堵の表情を浮かべ、葵の手を取った。
「心配させるなよ。ベッドに戻ろう」
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再びベッドに横たわった葵。零司は彼女が眠ったと思い込み、部屋を出ようとした。
だが、ドアが開く音がした。
依恋が入ってきたのだ。
「もう寝てるの?」
依恋の声は甘く、挑発的だった。
「どうせ彼女は何も見えない。それにこういうの、興奮するでしょ?」
葵の心臓が止まりそうになった。
零司は一瞬躊躇した。だが、依恋の誘いに抗うことはできなかった。
ベッドのすぐ横にあるソファ。
そこで、二人は再び抱き合い始めた。
葵のすぐそばで。
布団の中で、葵は静かに涙を流した。だがその涙は、悲しみではなかった。
心の奥で、何かが完全に凍りついていく音がした。
愛情が死んでいく音。
そして、その代わりに生まれたもの――
燃えるような復讐心。
「零司、あなたに地獄を見せてやる」
冷たく、静かに、葵は心の奥で誓った。