第7話:偽りの家族旅行
朝食のテーブルで、蒼が無邪気な笑顔を浮かべながら葵を見上げた。
「お母さん、今度の幼稚園の研修旅行、パパと一緒に行きたいんだ」
葵の手が、わずかに震えた。コーヒーカップを静かにソーサーに置く。
「研修旅行?」
「うん。ヨーロッパに行くんだって。パパが言ってたよ、依恋おばさんも一緒に行くって」
蒼の無邪気な言葉が、葵の胸を鋭く刺した。息子は何も知らない。父親の愛人を「おばさん」と呼び、三人での旅行を心から楽しみにしている。
零司が新聞から顔を上げた。
「葵、実は相談があるんだ」
その声は、いつもの優しい夫の声だった。だが葵には聞こえている。昨夜、階下で依恋と交わした密やかな会話が。
「君が目が不自由じゃなかったら、一緒に行きたかったんだけど」
零司の言葉に、葵の心が凍りついた。
偽りの配慮。偽りの愛情。
「長時間のフライトは君には負担が大きいだろうし、現地での移動も心配だ」
零司は葵の手を取った。その手は温かかったが、葵にはもう何も感じられない。
「どう思う?」
葵は静かに微笑んだ。
「蒼が行きたがってるなら、行かせてあげて」
「本当にいいのか?」
「ええ。私は家で待ってるわ」
その時、零司が秘書に電話をかけ始めた。
「チケットの手配を頼む。大人二人、子供一人で」
葵の返事を待つことなく。まるで最初から決まっていたかのように。
葵は内心で冷笑した。これは相談ではない。通告だったのだ。
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出発の朝、零司は家政婦たちの前で愛情深い夫を演じていた。
「寝る前に、必ず水を枕元に置いて」
「ブルーベリーは必ず食べさせて。目にいいから」
「薬の時間は絶対に守って」
三十分もかけて、葵の世話について細かく指示する零司。家政婦たちは感動したような表情で頷いている。
「旦那様は本当に奥様思いでいらっしゃいますね」
「こんなに愛されて、奥様はお幸せです」
葵は静かに座り、この茶番を眺めていた。心は微動だにしない。
「葵、行ってくる」
零司が葵の頬にキスをした。蒼も駆け寄ってきて、葵を抱きしめる。
「お母さん、お土産買ってくるからね」
「気をつけて」
葵は二人を見送った。そして窓辺に立ち、外の様子を見つめる。
車のエンジン音。そして――
零司が依恋を抱き上げ、蒼の手を引いて歩いていく姿が見えた。
まさに幸せな三人家族のように。
葵の心に、もはや痛みはなかった。ただ冷たい静寂があるだけ。
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旅行が始まって三日。零司と蒼からは一切連絡がない。
だが依恋からは、執拗にメッセージが送られてきた。
『あなたの息子、外ではずっと私をママって呼んでるの』
『零司と毎晩愛し合ってる。もう妊娠してるのに、零司ったら我慢してくれないの』
『パリの夜景、とても綺麗よ。零司があなたと行きたがってた場所なのに、私と来ちゃった』
葵はメッセージを読みながら、何も感じなかった。
心は微動だにしなかった。
もう傷つく段階は過ぎていた。彼女の感情は、計画実行を待つ冷徹な状態にある。
スマートフォンの画面を消し、葵は窓の外を見つめた。
美緒からの最後のメッセージが頭に浮かぶ。
【明日の夜、迎えに行く】
葵は静かに立ち上がった。
彼女は待っている。約束の日が来るのを。