第3話:断ち切られた絆
[刹那の視点]
「新年の初日に、育ての親の墓参りより大事な仕事って、一体なに?」
私の問いかけに、冬弥の顔が一瞬強張った。
「お前には関係ない」
「関係ないって……私はあなたの妻よ」
「妻なら、夫の仕事に口出しするな」
冬弥の声が冷たくなる。私は車のドアハンドルに手をかけた。
「わかったわ。一人で行く」
「刹那——」
私はドアを開け、車から降りた。冬弥が何か言いかけたが、もう聞く気はない。
車のドアを閉めた瞬間、冬弥は躊躇なくUターンした。タイヤが砂利を跳ね上げ、私の黒いワンピースを汚していく。
私は立ち尽くしていた。
夫が、私を道端に置き去りにした。
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冬弥は車を走らせながら、バックミラーで刹那の姿を確認した。黒い服を着た妻が、一人で立っている。
「これでよかったんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。美夜が待っている。彼女の方が大切だ。
スマートフォンが再び鳴る。美夜からだった。
「冬弥、どこにいるの?」
「今、向かってる。刹那は墓参りに行かせた」
「一人で?」
美夜の声に、わずかな驚きが混じる。
「問題ない。あいつは強いから」
冬弥は電話を切り、アクセルを踏み込んだ。
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[刹那の視点]
スマートフォンが振動した。メッセージが届いている。
美夜からだった。
「楽勝だったわ」
私は画面を見つめた。この女は、冬弥が私を置き去りにしたことを知っている。つまり、さっきの「急用」は——
指が震える。でも、私は冷静に返信した。
「結婚おめでとう」
送信ボタンを押す。
すぐに返信が来た。
「は?何それ?負け惜しみ?」
私は返事をしなかった。でも、美夜からのメッセージは続く。
「あ、そうそう。怜士くんが言ってたわよ。『あのババアを殺して美夜さんをお母さんにしたい』って。可愛いでしょ?」
息が止まった。
怜士が、そんなことを。
私の息子が。
スマートフォンを握る手が震える。でも、私は返信しなかった。
美夜の思う壺だから。
私は歩き始めた。墓地まで、まだ遠い。
一時間後、ようやく墓地の入り口が見えてきた。管理人の小屋から、初老の男性が出てきた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます。九条家のお墓に参らせていただきます」
「ああ、奥様ですね。お疲れ様でした」
管理人は私を見て、わずかに眉をひそめた。きっと、一人で来たことを不審に思っているのだろう。
「ご主人は?」
「仕事で」
短く答え、私は墓地の奥へ向かった。
九条家の墓石が見えてくる。冬弥の両親が眠る場所。私にとって、唯一の家族だった人たち。
墓前に膝をつき、手を合わせる。
「お義父さん、お義母さん。新年のご挨拶に参りました」
風が吹いて、枯れ葉が舞い散る。
「私は、もう冬弥のそばにいることに疲れ果てました」
声が震える。
「彼には、最愛の人が戻ってきました。私は、もう必要ありません」
涙が頬を伝う。
「あの事故のこと、まだ冬弥は私を恨んでいます。当然です。私のせいで、お二人は亡くなったのですから」
あの日のことを思い出す。
五年前の雨の夜。冬弥の両親を迎えに行く途中で起きた、あの交通事故。
私が運転していた。
対向車線からトラックが飛び出してきて、私は咄嗟にハンドルを切った。
でも、間に合わなかった。
冬弥の両親は即死。私は右手の薬指と小指を失った。
「冬弥は、私が両親を殺したと思っています。そして、それは事実です」
墓石に額をつける。
「だから、もう終わりにします。私は、冬弥を自由にしてあげます」
立ち上がろうとした時、空が急に暗くなった。
雨が降り始める。
最初はぽつぽつと。でも、すぐに激しい雨になった。
私は傘を持ってきていない。
タクシーを呼ぼうとスマートフォンを取り出したが、この山間部では電波が弱い。
仕方なく、歩いて帰ることにした。
雨の中を四時間歩き続け、ようやく都心に到着した時、私は全身ずぶ濡れだった。
街のショーウィンドウのガラスに映る自分の姿を見て、愕然とする。
髪は乱れ、化粧は崩れ、黒いワンピースは泥だらけ。まるで、野良犬のような姿だった。
でも、ガラスの向こう側を見て、私の心臓が止まりそうになった。
冬弥がいた。
怜士と美夜と一緒に、レストランで楽しそうに談笑している。
三人とも、笑顔だった。
私が見たことのない、心からの笑顔。
私は震える手でスマートフォンを取り出し、冬弥に電話をかけた。
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レストランで、冬弥のスマートフォンが鳴った。画面には「刹那」の文字。
冬弥は不快そうに顔をしかめ、通話を切った。
「誰?」美夜が尋ねる。
「営業の電話だよ」
冬弥は嘘をついた。そして、スマートフォンを無音モードに設定する。
「さあ、乾杯しよう」
三人がグラスを合わせる音が、レストランに響いた。
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[刹那の視点]
通話が切れた。
冬弥は、私からの電話に気づいていた。でも、意図的に切ったのだ。
私は立ち尽くしていた。雨に打たれながら、ガラスの向こうの幸せな家族を見つめて。
どんなにボタンを押しても、もう二度と光らなかった。冬弥の心のように。どれだけ温めても、もう温もることはない。
私はスマートフォンを開き、SIMカードを抜き取った。
小さなチップが、雨に濡れて光っている。
これが、冬弥との最後の繋がり。
私はそれを、近くのゴミ箱に捨てた。
もう、戻れない。