梅子は一瞬驚き、すぐに眉をしかめた。「婚約?家には他の娘もいるのでは?」
「澄子さんがおっしゃるには、彼女は石川家の娘ではないから、お嬢様の婚約を奪う資格はないとのこと。旦那様もはっきりおっしゃいました。それはあなたのもので、誰も奪えないと!」
丸山は嬉しそうに電話を受け、恭しく相手と話した後、電話を切って梅子を見た。
「お嬢様、旦那様はあなたを家に迎える前に、一度会いたいとおっしゃっています。ご存知の通り、お体の調子が良くないので、長年あなたのことを心配されていて…」
梅子は特に異論もなく、頷いた。「わかりました。でも、お爺さまへの贈り物がまだ届いていないので、手ぶらで行くのは失礼ではないでしょうか?」
丸山は急いで手を振った。「お嬢様が来てくださるだけで十分です。旦那様はそういうものを気にされません。」
石川お爺さんはこれまで長い年月を生きてこられた方だ。どんな良い物をご覧になったことがないというのか?
丸山が一番心配していたのは、梅子が見舞いを拒否することだった。
旦那様への贈り物を用意しようと考えるだけでも、すでに立派なことだ。
林家のあの貧しさで、家族全員であんな小さな別荘に住んでいる様子を見ると、丸山は梅子がどれほど良い贈り物を用意できるか期待しなかった。
しかし、梅子のその言葉は、礼儀正しく従順でありながらも卑屈にならず、節度をわきまえたものだった。おかげで丸山の彼女に対する印象は大きく良くなった。
この気品、さすが我が家のお嬢様だ!
「かしこまりました、すぐにご案内いたします」
三十分後、ヘリコプターは普通の乗用車に戻り、東京橋西病院に順調に到着した。
丸山は梅子に一枚の紙を渡した。そこには病室番号が書かれていた。
「お嬢様、旦那様は人が多いのをお好みではありません。洗車してきますので、お手数ですが一人で上がっていただけますか?ここでお待ちしております!」
石川お爺さんは気が荒くて、ここ二年間、病気になってからさらに奇妙な振る舞いをするようになっていた。丸山は少し申し訳なさそうに梅子を見た。
梅子は紙を受け取り、静かに頷いた。「わかりました」
三階に上がった瞬間、廊下で暴れ回っていた悪ガキたちが看護師の薬品カートを転倒させ、医療器材を積んだ台車が梅子に向かって猛スピードで突っ込んできた!
「危ない!」
看護師たちが一斉に叫んだ。
「まずい、中には三号ベッドの薬もある。こぼれたら大変なことに…」
梅子は避けようとしたが、看護師の会話を聞いた。
三号ベッド?
それは石川お爺さんのベッド番号ではないか?
カートは制御を失い、速度を増しながら梅子に向かって突進してきた。
混乱の中、梅子は足を素早く動かし、膝でカートを軽く支え、しっかりと制御した。
カートの中の薬は一滴もこぼれなかった!
看護師たちは驚愕した!
なんて素早い動きだ!
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
梅子は首を振り、カートを看護師に返そうとしたところ、太ったおばさんが突然彼女に向かって飛びかかってきた。
おばさんが手を伸ばし梅子の腕を掴もうとした瞬間、彼女は目にも留まらぬ速さでかわした。
おばさんは空振りし、梅子が気を抜いた隙に彼女の服をつかみ、フロア全体の患者が聞こえるほどの大声で叫んだ。
「お嬢さん、私たちの言い分を聞いてください!橋西病院は人を殺しておいて、私たちはどう生きていけばいいのですか!」
「橋西病院のミスで息子が死んだのに、知らん顔してるのだ!お嬢ちゃん、これってどう思う?」
女性は大声で泣き始めた。
「橋西病院は私の息子の命を償え!息子を返せ!」
「無能な医者が人を殺した!お宅の病院は息子の命を償うべきだ!」
各病室のドアから、見物人が出てきていた。
医療スタッフはもう慣れっこで、看護師は急いで梅子を引き離そうとした。
女性は看護師を床に押し倒し、泣き叫んだ。「神様よ!!息子はなんて不幸な運命なの!」
看護師はうんざりしたように眉をひそめた。「患者さんのご家族、手術前に手術同意書にサインしたでしょう。患者さんは術後のケア不十分で傷口が感染して亡くなられたのです。当院に何の責任があるというのですか?」
おばさんの声はさらに大きくなり、梅子の鼓膜が鳴り響くほどうるさかった。
「責任ない?ないって言うの?!息子はあなたたちの病院で息を引き取ったのよ!無能な医者が息子の命を奪った、命で償うべきよ!」
おばさんは普段から大声で話すのが常で、底力があり、怒涛の勢いでまくし立てるから、医療スタッフもほとほと困り果てていた。
叫び終わると、おばさんは処方箋を取り出し、床に座り込んで泣き続けた。
「なぜ誰も私を信じてくれないの、息子が夢に出てきて、全部あなたたちの病院のせいだと言ったのよ!」
看護師は嫌悪感を隠せなかったが、直接追い出すこともできなかった。
「でたらめを言わないでください。息子さんが夢に出てきたことが証拠になるんですか?迷信です!警備員、早く彼女を連れ出して!」
女性はその場で地面に寝転がり、病院が説明をしなければ動かないという姿勢を見せた。
冷ややかな声が、おばさんの頭上から降り注いだ。
「これはお子さんの薬ですか?この薬には問題があります」
おばさんの泣き声が突然止んだ!
彼女は顔を上げると、梅子が彼女の手にある処方箋を静かに見つめているのが見えた。その冷たい視線は水のようで、波紋を広げていた。
おばさんは興奮して、声はさらに大きくなった。「やっぱり分かる人がいるわ!ようやく私の味方をしてくれる人が!やっぱり橋西病院の無能な医者が息子を殺したのよ!」
この女性は三日おきに来ては騒ぎ、フロア全体の医療スタッフを悩ませていた。そんな悪質な病院嫌がらせに、皆うんざりしていた。
梅子を見ている医師の目に敵意が浮かべた。
「お嬢さん、発言には責任を持ってください。何を根拠に当院の処方箋に問題があると言うのですか?」
「まだ若いのに出しゃばって。この処方箋が読めるのですか?患者の症状も知らないでしょう?」
梅子は彼女を一瞥し、表情は穏やかだった。
「甘草類はプロスタグランジンの合成と放出を抑制し、11β-ヒドロキシステロイド脱水素酵素の活性を抑制して、患者の血圧を上昇させます。これは常識です。この処方箋の甘草錠の用量が多すぎて、患者の血圧上昇による死亡を引き起こしたと思います」
彼女の視線に出会った看護師は、居心地が悪くなった。
「あなたはただの高校生でしょう、私に常識を語るの?これは専門家チームが処方した薬よ!」
この若造、少し本を読んだだけで自分が医学を理解したと思っているのか?
少し懲らしめてやらないと、彼女は尊重の意味を理解しないだろう!
年寄りの声が聞こえてきた。
「いい加減にしろ!何を騒いでいる?」
医師と看護師はすぐに黙り、病室のドアに立つ年寄りを敬意を持って見ていた。
患者服を着たその男は、龍頭の杖を握りしめ、威厳に満ちていた。
看護師は目をきょろりと動かした
「長官様、以前の八号室の患者さんのご家族がまた騒ぎを起こしています。この青二才が『病院の薬に問題があった』なんて言い張るんですよ!」
「八号室の薬はすべて首都医科大学の田中健太教授ご自身が決定されたものです。その権威は非常に高いものでございます」
「もしかしたら潜入したスパイかもしれません。警備員に連れ出してもらうべきだと思います!」
年寄りは冷ややかに鼻を鳴らし、威厳と威勢を示した。
「スパイを侵入させるとは、お前たちの病院の警備は仕事をする気がないのか?」
医療スタッフは素早く動き、梅子の腕をつかんで連れ出そうとした。
梅子はは足さばきひとつで、軽やかに身をかわした。看護師は彼女の衣の裾にも触れることができなかった。
おばさんは片手で梅子を後ろに隠した。
「誰がこの子に手を出せるものか!このお嬢さんに指一本触れたら、この場で死んでみせる!」
医療スタッフは頭を抱える思いだった。患者家族のクレームに加え、口を挟む青二才まで現れ、場内は一時大混乱に陥った。
「早く彼女たちを追い出せ!」
「ここで妄言を吐くなんて、絶対に問題あるわ!」
梅子:「…」
彼女はただこの薬が常識的な誤りを犯していると言っただけなのに、なぜこの人たちはこんなに狂ったように反応するのだろう?
梅子は静かな眼差しを向けながら言った。「田中健太がそんなに偉いのですか?彼だって初歩的なミスを犯すことはありますよ」
彼女はこの名前を覚えていた。先月、チーム加入を打診するメールが届いたが、発展性に欠けると思って断ったのだ。
田中は彼女が一流医学雑誌NEJMに発表したいくつかのSCI論文を見て、必死に彼女に連絡を取ってきた。
それらの論文は、彼女が暇なときに気軽に書いたものだった。
彼女の一言で、周りの医師たちは怒り出した!
田中健太教授は現在の医学界の第一人者であり、心血管疾患分野の権威ある医学者で、華国の国家勲章を受賞し、医学界での影響力は非常に大きい。
今、若造に疑問を投げかけられたなんて!
「何を言っているの?田中健太教授をあなたが疑うなんて、分不相応よ!」
梅子は淡々と言った。「田中健太に連絡して、誤りを認めさせてもいいですよ」