王都の朝は、やけに静かだった。
人の声も、馬車の音もない。
それがかえって、この街の異常なまでの整えられた秩序を際立たせていた。
城門の前。
門番の兵士がやたら丁寧な口調で見送る。
「お気をつけて、姫様──いえ、アリシア様」
「姫って言うなって言ったでしょ」
──そこで脇に控えていた兵士が、ためらいがちに口を開いた。
「……本当に、お一人でよろしいのですか?」
アリシアは肩の力を抜き、短く答える。
「いいのよ」
別の兵士が小声で囁く。
「カガーノス様、よろしいのでしょうか」
カガーノスは視線だけで制し、淡々と返した。
「国王が承諾されたのだ。私たちの口を出すことではない」
金のドレスではなく、落ち着いた色合いの旅装束をまとったアリシア。
露出を抑え、裾を動きやすく整えたその姿は、もう城にいた姫ではない。
凛とした背筋で城門をくぐる彼女は、誰よりも彼女自身らしかった。
「ええんか、そんなんで」
「ええのよ。あの城にいるよりは、何百倍も」
「ほんまに捨てたんやな、姫」
「だから姫って言うなってば!」
拳志は笑った。
空は青く、やたら広い。
それだけで、王都よりはマシに見えた。
──同刻、王城。
王妃の居間で、二人だけの声が落ちる。
王妃は静かに問いかけた。
「……よかったの?あの子、行かせて」
国王は短く息を置いて答える。
「世界を見て回るのも良いだろう。
あの男が一緒なら死ぬことはあるまい」
王妃は視線を落とし、ひと呼吸。
窓辺の蜘蛛の巣が、陽に照らされて銀色に光っている。
「そのまま帰ってこないかも」
国王は淡々と断じた。
「帰ってくる。必ず。
見聞を広げ、世界に絶望してな」
王妃はわずかに口元を緩める。
「ふふ、そうね…」
城の塔の鐘が二度、澄んだ音を鳴らす。
その響きが王都の街路に広がり、やがて遠くへ溶けていった。
半日ほど歩いた頃。
二人は、小さな城下町の広場に足を踏み入れていた。
「なんや……あれ」
視線の先では、村人たちが一列に並ばされていた。
怯えた目で、地面を見つめている。
怒鳴り声を上げているのは、王都から来た騎士団。
その中の一人が、杖の先で老婆の肩を押し倒す。
「ひっ……ゆ、許して……足が悪くて……!」
老婆は転倒し、膝をついたまま咳き込む。
土にまみれたその手が、小さく震えていた。
「貴族様からの納品を拒否するとは、反逆罪に等しい!」
「こんな腐った野菜に、金なんて払えねぇって言っただけだ!」
「黙れ!平民に発言権などない!」
拳志の目の奥で、何かが静かに切れた。
「……おい」
声が低くなる。
「見たかってん。お前の国の本性」
アリシアは目を逸らせなかった。
拳を握りしめ、唇を噛む。
「私は……この国が、嫌い……」
声が震える。
「でも……だからこそ……変えたい。
逃げたくない。見て見ぬふり、したくないから……私は、私の手で……!」
拳志が前に出る。
「ええ加減にせぇよ、コラ」
怒気はなかった。
だが、声は、地面の下から這い出したように低かった。
「貴様、何者だ!?」
「通りすがりの──通り魔や」
拳志が一歩踏み出した瞬間、騎士が剣を構えた。
刃先に魔力が集まり、炎の紋が浮かび上がる。
「邪魔をするな!!」
剣を振り下ろした瞬間、空気が焦げつく。
炎の奔流が唸りを上げ、一直線に拳志を飲み込もうと迫った。
だが、次に見えたのは──火を裂いて飛び出す拳志の姿だった。
「……あぁ? この程度で人を燃やせる思うなよ」
拳志の拳が、炎の中を抜けて、騎士の顔面にめり込む。
音を立てながら地面に崩れ落ちる騎士。
「焼き鳥にすんぞ、ボケ」
爆風の余韻の中、騎士たちが剣を抜き、取り囲む。
「数、多いな」
だが、拳志は振り向かない。
「囲いは私がやる……!」
後方、アリシアの指先に、光の紋章が展開される。
魔法陣が重なり合い、半球状の結界を形成。
「私も……変わらなきゃいけない……!」
アリシアの結界は以前よりも精度が高く、範囲も広がっていた。
その様子に拳志がちらりと笑う。
「おう姫さん、ええ動きやん」
「姫言うな!」
と怒鳴った瞬間──
「──退いてください!」
どこかから、叫び声。
爆薬玉が投げ込まれ、煙と爆音。
騎士たちが咄嗟に視界を塞がれ、混乱する。
「なっ……誰だ!?」
煙の中から現れたのは、昨夜拳志が助けた少年だった。
騎士団の制服を脱ぎ捨て、私服のまま、呼吸を荒くしながら立っていた。
「僕は……!レイン・アッシュベル!
……自分の意志で、あなたたちについていくと決めました!!」
拳志がニヤリと笑う。
「よう来たな、パシリ」
レインは、腰の道具袋から次々と爆薬と釘を撒いていく。
騎士団の足元が封じられ、混乱が広がる。
「拳志さん、右側の騎士は片足を怪我してます。動きが遅いはずです!」
「おーけ。サンキューな、分析担当パシリ!」
「肩書きにパシリはつけないでください!!!」
拳志の拳が、もう一人の騎士の腹を貫いた。
次々と吹き飛ぶ騎士たち。
アリシアの結界が残兵を封じ、レインの奇襲が崩し、拳志が粉砕する。
──数分後。
騎士団は撤退を余儀なくされた。
広場に残されたのは、呆然とした村人たちと、三人の異物。
村人たちは地面に膝をつきながら、ゆっくりと拍手を送る。
「……ありがとう、ございました……!」
拳志は、干し肉を口に放り込みながら答えた。
「礼はええ。メシだけくれたら、それでええ」
アリシアが、小さく微笑んだ。
──統律の塔。
報告を終えたカガーノスが、仮面の男の前で片膝をつく。
カガーノスは低く告げた。
「……あの男に首輪はつけれないでしょう。だが、単純で直線的。利用することは容易いかと」
仮面の男は面を傾け、短く応じる。
「わかった。機が来るまでは泳がせておく。ただし、監視は怠るな。……他の転生者の捜索。急げよ、ザカリウス」
国王であるはずのザカリウスは深く頭を垂れた。
「は、かしこまりました」
その脇で欄干にもたれた少年が、口元だけ笑っている。
少年は小さくささやいた。
「まだ……まだ会うには早い。楽しみだな、拳志」
仮面の男が横目で少年を測り、何も言わず立ち去った。