「……」
吉田健は顔を拭った。「お前は交代させられた。一分前にな。」
秦野幸子の顔には少しの意外な表情も浮かばなかった。保温マグの蓋を閉め、立ち上がる。「行こう」
二人はテレビ局を出た。すでに入り口で待機していたマネージャー車の他に、黒い乗用車も一台あった。車のフロントにある銀色のエンブレムが光り輝いてきた。
運転席から誰かが降りてきた。スーツはきっちりと着こなし、髪は滑らかに整えられ、エリートそのものの姿だった。彼は指で鼻の上の眼鏡を軽く持ち上げ、秦野幸子に向かって歩いてきた。
来た人物は唐沢新の特別秘書である渡辺助手だった。健の目には、彼は暴君に仕える犬に過ぎなかった。彼を見るたびに、思わず悪態をつきたくなった。
渡辺は近づくと、優雅な笑みを浮かべ、丁寧に言った。「秦野さん、唐沢社長がお迎えに行くよう指示されました」
幸子は無表情で彼を見つめ、何も言わなかった。
渡辺は笑顔を保ちながら、ゆっくりと続けた。「秦野さん、唐沢社長は人を待つのがお嫌いです」
秦野がまだ動じないのを見て、渡辺はまるでロボットのように次の言葉を吐き出した。「秦野さん、今日のこの後のすべてのスケジュールを延期するか、すべてキャンセルするかは、あなたの一言次第です」
その言葉に健は我慢できなくなり、彼の襟元を掴みかかった。「お前ら、やり過ぎだぞ!」
「健」
幸子はようやく声を出した。感情の読み取れない淡々とした声で、簡潔に指示した。「今日の仕事は全部延期してくれ」
健は彼女が再び妥協せざるを得ないことを心配した。「幸子……」
幸子は健の腕を掴み、彼の手を引き離した。安心するよう目で合図し、そのまま真っ黒な車に向かって歩き出した。
渡辺は乱れた襟元を整え、健に向かって頭を軽く下げると、振り返って秦野の後を追った。
……
一時間後、車は郊外のリゾート施設に到着した。
幸子がレストランに入った時、窓際に座っている数人の男性が目に入った途端、足が止まった。
懐かしくない過去が、スライドショーのように脳裏をよぎる。背中を向けて逃げ出したい衝動を、彼女は必死に押さえ込んでいた。
唐沢新はソファにだらりと凭れ、薄い目蓋をあげて彼女をちらりと見ると、隣の空いた席を手でぽんぽんと叩き、こちらへ来いと合図した。
まるでペットを呼ぶような、相変わらずのしぐさだった。
幸子は体の両側で無意識に手を握りしめた。彼女はゆっくりと前に進み、座ったが、彼が指定した場所ではなく、ソファの反対側に腰を下ろした。
唐沢は長い指で顎を撫でたが、特に気にした様子もなく、顎を上げて向かい側の二人の男に彼女を紹介した。「貴之、宗佑、皆旧友だ。覚えているか?」
安藤貴之は熱心に彼女に挨拶した。「秦野佳人、忙しいね〜。会うのも一苦労だったよ」
赤松宗佑は彼女に頷きかけ、礼儀正しく「秦野学友、久しぶりだね」と言った。
幸子にとって、目の前の三人は、二度と会いたくない人たちだった。取り繕う気さえ起こらず、ただ表面的な笑みを浮かべるだけで、それを返事とした。
彼女の冷めた態度は、どうしても場を気まずくしてしまった。
唐沢は黒い瞳で秦野を見据え、皮肉っぽく、感情なく言った。「旧友との再会なのに、一言も話さないのか?」
声は静かだったが、その圧迫感は十分だった。