第2話:絶望の淵で
[氷月詩の視点]
階段の底で、私は激痛に身を震わせていた。
お腹が、お腹が痛い。
「蓮……助けて……」
か細い声で夫の名前を呼ぶ。
蓮は階段の上から私を見下ろしていた。その腕の中には刹那がいる。
「詩、俺は君の茶番に付き合っている暇なんてない。刹那は芸能人なんだ。もし手に傷でも残ったらどうする?君って、本当に、最低だな」
茶番?
私が階段から落ちて苦しんでいるのが、茶番だというの?
蓮は刹那を抱きかかえたまま、私に背を向けて歩いていく。
「蓮!待って!お腹の子が……」
でも、もう蓮の姿は見えなくなっていた。
足元を見ると、赤い液体が広がっている。
血だ。
私の血。
そして……赤ちゃんの。
「だめ……だめよ……」
誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「大丈夫ですか!救急車を呼びます!」
知らない人の声。優しい声。
救急車の中で、私は医師に縋るように訴えた。
「お腹の子を……お願いします、助けて……三ヶ月なんです」
医師の表情が曇る。
でも、まだ希望はある。まだ……。
----
救急隊員が詩の夫に緊急連絡を試みていた。
「竜ヶ崎(りゅうがさき)蓮様でいらっしゃいますか?奥様が階段から転落され、緊急搬送中です。すぐに病院へ……」
しかし、電話に出たのは蓮ではなかった。
「はい、蓮さんの携帯です」
女性の声。甘い、計算された声。
「あの、奥様が危篤状態で……」
「ふふ……氷月詩、あんたも必死ね。子供を使って、蓮さんを取り戻そうなんて——無駄なことよ」
刹那の嘲笑が電話越しに響く。
「蓮さん、また詩さんが嘘の電話をかけてきてるわ。病院に運ばれたって言ってるけど……」
背景で蓮の声が聞こえる。
「無視しろ。どうせまた嘘だ。今はお前の手のほうが大事だ」
電話は一方的に切られ、その後は電源が落とされたようだった。
----
[氷月詩の視点]
消毒薬の匂いで目が覚めた。
白い天井。白い壁。
病院の一室。
「気がつかれましたね」
医師が優しい声で話しかけてくる。
「お腹の子は……」
「申し訳ありません。でも、まだお若いですし、きっとまた授かれますよ」
まだ授かれる。
それは、もう授からないということ。
私の赤ちゃんは、もういない。
蓮の手によって。
蓮の手によって殺された。
「無視しろ。どうせまた嘘だ。今はお前の手のほうが大事だ」
救急隊員から聞いた、あの言葉が蘇る。
ああ、本当に。
私たちは、何もかも、最初から違ったんだ。
涙が頬を伝って落ちていく。
竜ヶ崎家の嫁として。蓮の妻として。そして、母として。
私は全てを失った。
でも、これで終わりじゃない。
絶対に。