第6話:空虚な約束
[氷月詩の視点]
玄関のドアが開く音が響いた。
蓮が帰ってきた。
「詩、ただいま」
リビングに入ってくる蓮の手には、ジャケットが掛けられている。
「誕生日おめでとう。今日は早く帰ってきたよ」
ジャケットを私に差し出す。
受け取った瞬間、甘い香水の匂いが鼻をついた。
女性用の香水。
刹那の匂い。
「ありがとう」
無表情でジャケットを受け取る。
蓮は私の反応を気にする様子もなく、ソファに座った。
「お腹の調子はどう?」
そう言いながら、私のお腹に手を伸ばしてくる。
もう、そこには何もないのに。
「次の検診、必ず一緒に行くから」
蓮の手が私のお腹を撫でる。
空虚だった。
全てが、空虚だった。
「俺と刹那は、お前が思っているような関係じゃない。ただの友達だよ」
蓮が急に言い出した。
「詩はいつも嫉妬深いからな。でも、心配する必要はないんだ」
嫉妬?
私が?
もう、そんな感情すら湧いてこない。
「そうね」
短く答える。
蓮は安堵したような表情を浮かべた。
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隣家では、刹那が蓮の帰りを待っていた。
「蓮くん、遅いな……」
窓から竜ヶ崎家の方を見つめる。
「詩さんの誕生日だから、仕方ないか」
でも、心の中では確信していた。
蓮の心は、もう自分のものだと。
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[氷月詩の視点]
「誕生日だから、どこか行こうか」
蓮が提案してきた。
「どこに?」
「お前の行きたいところでいいよ」
私は少し考えてから、口を開いた。
「ソル・シエラは?」
蓮の表情が一瞬、強張った。
「ソル・シエラ?遠すぎるだろ」
即座に拒否された。
「刹那を一人にしておけないし、近場のリゾートにしよう」
やっぱり。
刹那のそばを離れる気はない。
「冗談よ」
私は笑って見せた。
「そうか、びっくりしたよ」
蓮は安堵の表情を浮かべた。
でも、私の笑顔の裏にある絶望には、気づいていない。
「じゃあ、レストランを予約してあるから、準備してくれ」
蓮が立ち上がる。
「どこのレストラン?」
「お前の好きなイタリアンだよ」
本当に?
私の好きな料理を、覚えていてくれたの?
一瞬、心が揺らいだ。
でも、それも束の間だった。
レストランに着いて、メニューを開いている間に、蓮は勝手にウェイターを呼んでいた。
「前菜はカルパッチョ、メインはペスカトーレ、それからティラミス」
私の好物は、一つもなかった。
全て、刹那の好きな料理だった。
「あの、私は——」
「大丈夫、俺が選んだから」
蓮は私の言葉を遮った。
そして、レストランの入り口から、見慣れた人影が現れた。
暁刹那。
「蓮くん、お疲れさま」
当然のように、私たちのテーブルに向かってくる。
「刹那、来てくれたのか」
蓮の顔が、一気に明るくなった。
「呼んでくれたじゃない」
刹那は私の向かいの席に座った。
私の誕生日ディナーの席に。
「そりゃそうだろ。お前の好きなものを頼んだんだから。ゆっくり食べろ」
蓮が刹那に優しく微笑みかける。
「ありがと、蓮さん!大好き!」
刹那が蓮に向かって言った。
そして、私の方を見て、薄っすらと笑った。
「あ、ファンに言う癖で」
見え透いた言い訳。
でも、蓮は何も疑わない。
私の誕生日が、完全に刹那のものになった瞬間だった。