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斎藤穂香(さいとう ほのか)は、まだ熱のこもった身体を押し殺すように動かしながら、乱れきったベッドを片づけていた。
つい先ほどまで、彼女と清水彰人(しみず あきと)は激しい一夜を共にしたばかりだ。
バスルームの灯りが煌々と光り、男はシャワーを浴びている。
彼は家の使用人に主寝室へ入られるのを嫌うため、この惨状は彼女が片づけるしかなかった。
床には二人の衣服が散らばり、穂香はひとつひとつ拾い上げる。自分の下着が無残に裂かれているのを目にした瞬間、頬が熱くなり、胸が高鳴った。
思わず唇の端が上がる。
――今夜の彼は、まるで別人のようだった。
かつてない情熱を見せていた。
これまでの彼は、義務を果たすように彼女を抱くだけで、そこに情熱はなく、温もりもなかった。
だが今夜は違った。清廉で近寄りがたい仏のような男が、一転して欲望に飢えた獣へと変貌したのだ。
(二年越しで……ようやく、彼の心は溶け始めたのだろうか?)
そう思った瞬間――「っ…」
下腹部を鋭い痛みが襲い、穂香は小さく息を呑んだ。
彼があまりにも激しかったせいだ。
最中から痛みはあったが、初めての熱情を壊したくなくて、必死に耐えていた。
だが時間が経つにつれ、痛みはますます強くなっていく。
――そのとき。
ベッドサイドのスマホが震え、着信音が鳴った。
彰人の携帯だった。
穂香は腹を押さえながら画面に目をやる。
「どうしてまだ来ないの?」
名前もなく、ただその一文だけ。
彼女が思わずメッセージを開こうとした瞬間――
「何をしている?!」
背後から冷ややかな声が響いた。
振り返ると、濡れた髪をタオルで拭きながら立つ彰人が、鋭い視線を投げかけていた。
「わ、私は……」
慌てて言い訳をする彼女の手から、彼は容赦なくスマホを奪い取る。そして一瞥した後、何も言わず衣帽間へと向かった。
そして一瞥した後、何も言わずクロークルームへと向かった。
その背中は、あまりにも冷たい。
誰からのメッセージなのか聞きたかったが、自分には資格がないことをよく知っている。
ほどなくして、彰人は服装を整え、優雅にカフスボタンをはめながら出てきた。
「彰人……」
彰人が自分に一瞥もくれずに出口へと向かうのを見て、穂香は焦りのあまり裸足で駆け寄り、彼の袖をつかんだ。
縋るように袖を掴んだ彼女の手に、彼はあからさまな嫌悪を浮かべた。
「……っ」
穂香はすぐさま手を離し、震える声で呟く。「お、お腹が……少し痛くて……」
「そんな芝居、面白いか?」
吐き捨てるような冷笑。
その言葉は、彼女の胸を鋭く突き刺した。
彼の言外の意味は、彼女が嘘をついているということか?ただ彼を引き留めるために?
――また、誤解されたのだ。
穂香の胸が苦しくなり、一瞬言葉が出なかった。
そのうちに、彰人はすでに寝室を出て行っていた。
「彰人、彰人…っ…」
追いかけて説明しようとしたが、下腹部の激しい痛みが彼女の足を止めた。
すぐに、下のガレージから聞き覚えのあるエンジン音が聞こえた。
残された彼女は、強まる痛みに膝を折り、ただその背中を見送ることしかできなかった。
彼女の顔色が青ざめになり、額に冷や汗が浮かんだ。
ついに耐えきれなくなり、目の前が暗くなって倒れてしまった。
……
「黄体ホルモンの破裂は危険ですよ。お手伝いさんが運んでくれて助かりましたね」
「まったく……若い人は無茶しすぎだよ。どれだけ好きでも加減ってものがあるだろうに」
「好き?違うんじゃない?」
「どういうこと?」
看護師たちの囁きが、無意識に耳に入る。
「本当に愛しているなら、どうして彼女をこんなに傷つけるの? あちこちに痣も裂傷も……虐待と言われても仕方ない」
「こらこら、聞こえたら大変だよ」
「でもさ、隣の病室を見てごらん。人気デザイナーの木村彩(きむら あや)さんがちょっと頭痛で入院しただけなのに、恋人が徹夜でつきっきり。あれこそ愛でしょ?それに比べてこの子の旦那は……影も形もなし」
二人の看護師は意識のない穂香に点滴の針を刺しながら、小声でゴシップを交わしていた。
木村彩?
彼女が……帰国した?
その名前を耳にした瞬間、穂香の胸は強く締めつけられた。
……
病室の前。
ガラス越しに見えるのは、弱々しく横たわる木村彩と、その傍らで寄り添う清水彰人の姿だった。
看護師が彩に点滴をしようとしていた。
看護師が注射器を取り出すのを見て、彩はとっさに彰人の胸に飛び込んだ。
「彰人!」甘ったるく呼びかけた。
甘えるように縋りつく彼女を、彰人は優しく抱きとめる。
「大丈夫だ。怖くない」
看護師に「なるべく痛くしないでくれ」と頼む声。
――彼女は、痛みに弱いから。
その一言が、穂香の胸を容赦なく抉った。
笑うしかなかった。
それはあまりにも惨めで、哀しい笑みだった。
彰人と彩の親密な光景は、まるで見えない手が彼女の心をきつく掴んでいるようだった。
蹂躙し、引き裂く。
血まみれに!
下の痛みが彼女に鮮明に思い出させた。彼女と彩は、彼の心の中でどれほど違う存在なのかを。
「本当に愛しているなら、どうして彼女をこんなに傷つけるの?」
看護師の言葉が耳に響き、まるで二度の平手打ちが彼女の顔に当たったかのようだった。
はっ!
(私は、なんて愚かなんだろう)
昨夜の乱暴を「愛」と思い込み、心のどこかで「彼が変わった」と夢見ていた自分。
結局、ただの妄想だったのだ!
6年間の片思い、2年間の結婚生活。
彼女は既に8年間も彼を愛してきた!
けれど現実は、
八年もの片思いの果てに、なお彼の心には木村彩しかいなかった。
彼女の努力は彼にとって価値がなく、彼女の思いはまるで笑い話のようだった。
彩がいない日々でさえ、彼の心を動かすことができなかった。彩が戻ってきた今、彼が彼女を愛することなど、もはやありえない。
――もう、いい。
冷え切った心を温めようとするのは、これで終わりにしよう。
汚れた愛など、要らない。
穂香は涙を噛み殺し、
背筋を伸ばしてその場を後にした。
決意はただひとつ。
離婚だ!
――離婚する。
……
夜十時。
帰宅した彰人を待っていたのは、真っ暗な家だった。
穂香は家にいないのか?
それとももう眠ったのか?
ありえない!
結婚して2年、彼が帰宅しない限り、家の明かりが消えることはなかった。彼女が先に一人で寝ることなどさらにありえなかった。
真っ暗な家を見て、彰人は心に妙な感覚が広がり、なんか居心地が悪かった。
家に入り、明かりをつける。
はっ!
彼は息をのんだ。
じっとソファに座る穂香。まるで命を失った人形のように。
何を考えているのかわからない。
彰人は眉をしかめた。
声をかけようとした彼の前で、彼女がぽつりと呟いた。
「清水彰人……」
名前を呼ばれたことに、一瞬眉をひそめる。
「今、なんて呼んだ?」
彼女がそう呼ぶのは初めてだった。
最初の頃は「彰人兄さん」と呼び、結婚後は「彰人」と呼んでいた。彼を誘惑したり何かを頼む時は「あなた」と呼んでいたのに……
ゆっくりと視線を上げた彼女の瞳は、赤く潤んでいる。
そして、震える声で――
「……私たち、離婚しましょう」