「おまえ、自分が何をしてるか分かってるのか?明日の朝八時には取締役会だ。渡辺グループの国際貿易に関わる大事な会議だぞ。それなのに午前五時に、こんなくだらないことで口論してる俺の身にもなれ!」
電話口から彰の怒声が浴びせられる。
「……だって、もう寝たと思ったから。前は寝るとき、いつもスマホをマナーモードにしてたじゃない?」
灯の声は弱々しく、しかしその一言で渡辺の罵声は途切れた。
「じゃあ……離婚の手続き、いつなら時間ある?」
数秒の沈黙。やがて冷笑が返ってくる。
「森田灯。俺はおまえの呼び出しに応じる駒か?結婚したい時に結婚し、離婚したい時に離婚できる相手だとでも?」
「違うよ」灯は首をかしげるように言う。「だから相談してるんじゃない。なのに、あなたはいつも答えをくれない。ただ言葉を並べて、本題を避けてばかり」
渡辺は奥歯を噛みしめ、やっと言葉を絞り出す。
「……離婚でもいい。ただし条件がある。祖父の誕生日祝いまでは夫婦で出席しろ。最近、三叔父が俺に突っかかってきてる。あの席で離婚なんて話が出れば、祖父が心労で倒れるかもしれん」
「なら、明日の午後に離婚して、そのまま一緒にお祝いに出席すればいいわね」
灯は掛け布団の上に指で数字を書き、ふっと息を吐いた。
「分かった。それじゃあ、もう切るね。ゆっくり休んで」
「待て!」
渡辺は思わず声を荒げた。自分でも後悔したが、もう引き返せない。
「……なぜ急に須藤夏蓮のことを口にした?彼女が帰国したのを知ってるのか?」
灯は答えない。沈黙が二人の間に広がる。十時間前――彼女が六度も電話をかけてきた時、西海岸での件を問い詰めたことが、渡辺の頭をよぎった。
すべてが繋がる。
ライターの「カチリ」という音。紫煙を吐きながら、渡辺の声は少し緩んでいた。
「もしその程度のことで癇癪を起こしてるなら……森田灯、世の中の人間がみんなおまえみたいに恋愛しか頭にないと思うなよ」
布団に爪を立てた灯の指が痛みを伝え、目の奥に涙がにじむ。
彼女は小さく笑った。
「そうだね。だから……私も自分の生活を追い求めることにするよ」
再び離婚の二文字が突き刺さる。渡辺のわずかな安堵は、一瞬で吹き飛んだ。
「後悔するなよ!」
電話が切れ、灰皿の中で煙草が乱暴に押し潰された。
灯は真っ黒なスマホ画面を見つめ、かすかに笑顔を作ろうとしたが、すぐに崩れてしまう。
「凪……私、ちょっと……悔しい。」
涙交じりの声に、凪は黙って彼女を抱き締めた。
「泣きたいなら泣け。ここには私しかいない」
長い片想いに区切りをつけるように、灯は声をあげて泣き続けた。
「コンコンコン——」
渡辺の思考を打ち破るノックの音。
「何だ?!」
おそるおそる入ってきた家政婦が言った。
「し、失礼します……さ、先ほど須藤様からお電話が。お繋ぎできなかったようで……」
渡辺は額を押さえ、不快げに声を荒らげる。
「今度は何だ?」
家政婦は唾を飲み込み、さらに小さな声で続けた。「お身体の調子が悪いそうで……病院に来てほしいと。大事なお話がある、と……」
「忙しい。具合が悪ければ医者に行けと言え」
「……奥様のことに関係がある、と」
空気が凍る。
渡辺はコートを掴み、低く命じた。
「車を回せ」
黒塗りのロールスロイスは夜の街を走り去り、明け方の光に影を追われていった。
一方その頃。
「ちょっと!いくら気を紛らわしたいからって、粥を三杯も平らげるなんて正気?」
凪は呆然と、泣き終わってから猛烈に食べ始めた灯を見つめていた。灯は最後に漬物を一袋手に取り、大きな茶碗のお粥を平らげ、口を拭いても物足りなそうな顔をしていた。
「まだ食べたいなら自分で取ってこいよ。ナースステーションの姉ちゃんには顔を覚えられちまった。明日にはお粥三杯をぺろりと平らげた患者として病院中で有名になるぞ。そんな恥ずかしい思いはごめんだ」
灯はげっぷをして満足そうにベッドに倒れ込み、お腹を撫でて笑った。
「一日中ろくに食べてなかったんだから……あんたの家で果物を少し食べただけ。これくらい許してよ」
凪は茶碗を片付けながら不機嫌そうに彼女を見た。「まるで芸能人の減量生活みたいじゃない!」
「違うの……」灯は小さく首を振り、声を落とす。「渡辺のお母さんが名古屋から取り寄せた不妊治療の薬、酸っぱくて苦くて、一日三回飲まされてたの。それでずっと吐き気がして、食欲もなくて……」
言葉が途切れる。
凪の顔が険しくなる中、灯は視線を腹部に落とし、長い沈黙ののちに呟いた。
「……薬のせいじゃなかったんだ」