秋山教授の家からの帰り道、僕と月読さんは一言も口を利かなかった。バスの窓から流れていく景色のように、僕の頭の中では『佐々木隼人』という名前と、教授の語った衝撃的な事実がぐるぐると回っていた。
古物店『時のかけら』に戻ると、重い沈黙が二人を包んだ。呪いの絵が収められた桐の箱が、まるで墓標のように静かに鎮座している。
「……どうするんですか」 僕が先に沈黙を破った。「警察に? それとも、マスコミに?」 「無駄よ」 月読さんは即答した。彼女は店の片隅にあった古いテレビのスイッチを入れる。 「相手は、ただの画家じゃない。国民栄誉賞の噂さえある、日本美術界の“巨匠”。何の証拠もないまま告発したところで、狂人の戯言として握り潰されるだけ。それに……」
彼女は桐の箱に視線を移す。 「私たちの目的は、社会的な制裁じゃない。如月しおりの魂を、この絵の呪いから解放すること。そのためには、彼女の無念の根源――『認められなかった才能』と『盗まれた名誉』を、白日の下に晒す必要があるの」
ちょうどその時、テレビ画面に、穏やかな笑顔を浮かべた老人の顔が大写しになった。テロップには『文化の巨匠、佐々木隼人氏、半世紀の画業を振り返る』とある。 その顔は、慈愛に満ちた芸術家の仮面を完璧に被っていた。しかし、僕の目には、彼のオーラの深層に、固く蓋をされた黒い《澱(おり)》のようなものが見えた。それは、数十年の時を経て化石化した、《罪悪感》の残骸だ。
番組は、今週末から国立美術館で始まる、佐々木隼人の大規模な回顧展のニュースを伝えていた。彼の代表作として紹介されたのは、希望に満ちた光を描いた『希望の夜明け』という作品。――奇しくも、それはかつて、如月しおりの絵を退けてコンクールで最優秀賞を獲った作品だった。
「見て、神木くん」 月読さんが、テレビ画面を指差した。 「私たちのための、最高の舞台が用意されたわ」
彼女の黒曜石の瞳に、闘志の炎が宿る。 「決戦の場所は、その回顧展よ」
僕の心臓が、ドクンと大きく脈打った。 「でも、どうやって……」 「証拠を見つけるのよ」と彼女は言った。「佐々木隼人は、必ず何かを持っているはず。如月しおりから盗んだアイデアスケッチ、彼女に宛てた手紙、あるいは……彼の嘘を暴く、決定的な“何か”を。それはきっと、彼の輝かしい経歴の中で、唯一、強烈な負の感情を放っているはずよ」
彼女は僕の目を見て、はっきりと言った。 「あなたの『記憶の残滓』で、その“物証”を見つけ出すの。それが、あなたの役目」
国民的画家の、厳重に警備された展覧会に忍び込み、呪いの証拠を探し出す? まるでスパイ映画のような計画に、僕は眩暈がしそうだった。
「僕の力で、そんなことが……」 「今のままでは無理でしょうね」 月読さんは僕の不安を見透かしたように、あっさりと言い放った。 「あなたには、もっと力が必要。呪われた絵画と対峙した時のように、強い負の感情から身を守るための『盾』。そして、分厚い嘘の壁をこじ開けるための『矛』が」
彼女は店の窓から、夕暮れの街を指差した。雑踏の中には、喜び、悲しみ、怒り、様々な色の感情が渦巻いている。 「この街は、感情のビュッフェのようなものよ。決戦の日まで、出来るだけ多くの“良質な”感情を回収(たべて)きなさい。特に、純粋な《感謝》や《愛情》、《勇気》といった正の感情は、あなたの最高の武器になる」 「訓練、ですか」 「ええ。あなただけの、特別な訓練よ」
僕はゴクリと喉を鳴らした。 店の壁に掛けられたカレンダー。佐々木隼人回顧展の初日には、赤い丸がつけられていた。
残された時間は、あと五日。
巨匠が築き上げた嘘の城。その崩壊へのカウントダウンが、今、始まった。僕はこの街で、魂を救うための力を、手に入れなければならない。