第05話:雪の中へ
[氷月雫の視点]
玄関の外で、呼吸を整えた。
刹那と玲奈の車が去っていくテールランプを見つめながら、胸の奥で何かが静かに砕けていくのを感じていた。
携帯が震える。
メッセージだった。
『私の勝ちね』
綾辻玲奈からだった。
『これからあなたが持っていたもの、全部、ひとつずつ奪っていくつもりよ』
画面を見つめたまま、不思議と怒りも悲しみも湧いてこなかった。
ただ、静かだった。
家の中に戻る。
がらんどうになったリビング。剥がされた壁紙の跡。床に散らばった思い出の欠片たち。
ゴミ袋に詰め込まれた写真立て。結婚式の時の花束。私が大切にしていた陶器の人形。
すべてが、ゴミとして扱われている。
ここは、もう私たちの「家」じゃない。
そう思った瞬間、不思議なほど楽になった。
別荘に戻ると、すぐに業者に電話をかけた。
「家具の処分をお願いしたいのですが」
「どちらの家具でしょうか?」
「すべてです」
玲奈が欲しがっていたアンティークの食器棚も、イタリア製のソファも、刹那が選んだダイニングテーブルも。
全部、処分してもらった。
彼女の影響を、完全に排除したかった。
壁のカレンダーを見上げる。
薄くなったページ。残り少ない日付。
机に向かい、二通の手紙を書いた。
一通目は、かえで宛て。
『財産の整理をお願いします。すべて、あなたに託します』
二通目は......
『氷月刹那様』
ペンを持つ手が震えた。
封筒の中には、署名済みの離婚届が入っている。
死ぬ前に、あの人との縁を完全に断ち切りたかった。
郵便屋が来た時、二通の手紙を託した。
「お疲れさまでした」
配達員の男性が丁寧にお辞儀をして去っていく。
これで、すべて終わり。
寝室に向かう途中、偶然古い日記帳を見つけた。
ベッドサイドの引き出しの奥に、忘れられたように眠っていた。
表紙を開く。
『今日、刹那と初めてデートした。映画を見て、カフェでお茶をして。彼の笑顔が、とても素敵だった』
十年前の私の字。
ページをめくる。
『プロポーズされた。雪の降る公園で、震える声で「結婚してください」って。私も泣いちゃった』
『新婚旅行。ハワイの海がきれいだった。刹那が「君と一緒なら、どこでも天国だ」って言ってくれた』
『新居に引っ越した。小さいけれど、二人には十分。刹那と一緒に植えたバラが、来年咲くのが楽しみ』
幸せだった頃の記憶。
でも、ページが進むにつれて、記述が変わっていく。
『今日も帰ってこなかった』
『また仕事だと言って出かけていった』
『私のことを見てくれない』
そして、最後のページ。
数年前の日付で、記述が途切れている。
『今日も帰ってこなかった』
それが、私の書いた最後の言葉だった。
ペンを取り、最後のページに書き足した。
『さようなら』
たった一言。
でも、それで十分だった。
腹部に激痛が走る。
いつもより強い痛み。
薬を飲む。
しばらくすると、身体が軽くなった。
まどろみの中、私は幻を見た。
雪が降っている。
その中を、十八歳の氷月刹那が、こっちへ向かって走ってくる。
鼻の頭を真っ赤にしながら、それでも笑顔を浮かべている。
彼が手を差し伸べてくる。
その瞳は、まっすぐで、やさしくて。
私はその手に、自分の手を重ねた。
そして——一緒に雪の中へ、駆けていった。