「井上監督、昨日のような事件があったのに、和行様がどうして琴音を撮影現場に残すことを許すんですか?追放しないだけでもいいのに、早く女優を替えたほうがいいんじゃないですか?」
助手が小声で提案した。
今や「琴音」という名は雪菜にとって禁句で、誰も口にしようとしない。
井上監督はタバコを深く吸い込んだ。「もう少し待とう。役者を替えるのはそう簡単じゃない」
特に琴音のように美しい女優はなかなかいない。
「でも、昨日琴音が和行様を殴った場面を監督も見ましたよね。今ごろ琴音は和行様にめった切りにされているかもしれませんよ。和行様がこんな屈辱を受けたことなんてないですから」
言っていることはもっともだ。
どの女優が適役か考えていると、ひときわ目を引くパガーニが疾走するようにやって来て、すぐ傍らに停車した。
撮影所内に車を乗り入れられるのは、滝京中探してもほんの数人しかいない。
「和行様の車です!」
助手を叱りつけていた雪菜は急に立ち上がって走り寄り、目を輝かせた。
和行様が琴音というあのクソ女をどう処分したのか知りたかった。
ふん、私をいじめ、和行様まで殴るなんて、あの女はきっとひどい目に遭っているだろう。
車のドアが開き、和行が最初に降りてきた。
彼は黒のトレンド服を着こなし、鼻にサングラスをかけ、ふてぶてしく車のボンネットに寄りかかった。
雪菜は彼に近づき親しげに腕に手を回した。現場の女性たちは羨望と嫉妬の眼差しで見つめていた。
「和行様、昨夜帰ったら私のお腹にあざができていたの。きっと琴音に蹴られたせい!和行様は私の瑞々しい肌がお気に入りで大切にするようにと言ってたのに、今は……」
まだ琴音の名前を出すな!君さえいなければ、俺は琴音に殴られずに済んだんだ!
和行は無表情で雪菜に掴まれた手を引き抜いた。
そのとき、車のドアがまた開き、琴音がゆっくりと出てきた。
雪菜と撮影スタッフ全員、頭の中が「???」で埋め尽くされた。
琴音がまだ生きている?
しかも和行様の車から出てきたのか!
雪菜の表情が変わった。「和行様、これはどういうことなの?琴音がなぜあなたの車から出てくるの?」
「君に関係ない」
それを聞いて、雪菜は歯を食いしばり、哀れっぽく言った。「和行様、私が何か悪いことをしたの?和行様、直すから、そんなに怖い顔をしないで。怖いわ!」
ちくしょう!
琴音は細目を開け、非常に不機嫌そうに耳をかいた。「もともと美人だからあんたに手を出すつもりはなかったんだが、そこでわざとらしく色気を振りまいてるなら、容赦はしない!」
二歩前に出ると、雪菜を和行の傍からぐいと引き離した。「撮影して。この私がこのままあんたと同じ現場にいたら寿命が縮みそう」
この「この私」って口癖。琴音は自分が無名すぎることをまったく気にしていないのか?
雪菜は怒りで顔面蒼白になった。まさか琴音が和行様の新しい彼女になったのか?
いや、だめだ。彼女はやっと一ヶ月のジンクスを乗り越えたばかりで、ようやく和行様の本命かもしれない、いずれ野村家の奥様になるだろうと皆が期待を見ている。
絶対に横から取られるわけにはいかない!
「和行様、この女があなたに何か惚れ薬でも飲ませたの?琴音という女はとても浮気性で、業界での評判も最悪。自分に利益をもたらす男性を見ると必ず近づいて……」
和行は何も言わず、無意識のうちに琴音に視線を向けた。彼女が怒って雪菜を地面に押さえつけて殴ると思ったが、結果は……
「井上監督、私の最後のシーンですよね、撮影できますよ」
撮影?
和行様を殴ったくせに、まだ……
井上監督は問いかけるような目を和行に向けた。
「ええと、彼女は俺を助けてくれた。恩を仇で返すような人間じゃない。撮影しろ、早く」
なるほど、だから琴音が彼に直接撮影所まで送るよう頼んだのか。