詩織の胸から溢れ出た悲しみは、大奥様の言葉に一瞬で押し戻された。
彼女は肉さえ切ったことがないのに、まさかこんなことをさせるとは。
恭介は慌て出した。
「母上、ちょっとした誤解だよ。刃物を使うほどのことじゃないだろう」
大奥様は冷たく鼻を鳴らした。
「この福田家の家系が、私が生きている代で、汚れた場所になってしまった。兄が妹と関係を持つなんて、こんな恥ずかしい噂が広まれば、福田家の百年の名声はどうなる?」
「お婆様、おばさんはただの妄想症です。そんなことはありません」
彰人が声を出すと、大奥様の怒りはさらに大きくなった。
「じゃ実際はどうなの?彼女を連れ戻してから、私に現実を受け入れさせるつもり?」
「彼女を連れ戻す予定もありません」
彰人は一瞬間を置いて付け加えた。
「それに、彼女も帰りたいなど、一度も言ったことはありません」
「そんなはずがない!」
高橋が口を挟んだ。
「美雪は海外でうつになって自殺したのは、家に帰りたかったからよ。彰人、こんな脅しに騙されないで!美雪を連れ戻すのよ。詩織なんて手を下す勇気もないわ!」
「本当に美雪のために思うなら、黙っていた方がいい」
彰人は顔を暗くして言った。
彼があの女性を必死に守る姿を見て、詩織の中で渦巻いていた感情は少しずつ凍りついていった。
彼女は床にある刃物を取り上げた。
「お婆様、福田家の血筋がこの代で断つことになっても、お咎めはないですね?」
福田大奥様は孫を一目見た。
「福田家の血筋は途切れないよ。思う存分切りなさい!」
詩織は彰人を見た。初めて刃物を抜いて怒りを晴らそうとする彼女の手は少し震えている。
彰人は彼女をじっと見つめると、突然シャツのボタンを外し、引き締まった胸を露わにした。
「ここを狙え。俺の心をえぐり取れ、それで俺の言葉が本当かどうか確かめろ」
彼はまったく怯えないが、詩織も本当に刃を彼の胸に当てた。
高橋は焦って立ち上がって罵った。
「詩織、あなたはまさに不吉な存在よ。両親が捨てたのは正しかったよ。あなたはどこにいても災いをもたらすだけ。彰人が離婚するのは賢明な選択よ。うちの美雪の万分の一にも値しないから……ごほん、ごほん……」
彼女の残りの言葉は、大奥様の杖に打ち散らされた。
「この悪女め!彰人が詩織と離婚するようなことがあれば、あんたこそ福田家の罪人だ!」
詩織は手の中の刃物を見つめ、冷静さを取り戻した。
こんな茶番を続けても、二人の問題は解決しない。
詩織は彰人の手を押しのけ、振り返って刃物をテーブルに置いた。
「あなたのために殺人犯になるなんてごめんだ。私が欲しいのは…」
離婚という言葉が口から出る前に、大奥様の言葉で遮られた。
「ここでやめたら、今回は彼を許したということにしておくわよ」
「……」
大奥様は彼女の返事を待たずに、孫を叱りつけた。
「妻を守ることが男としての責任だわ。どうでもいい人のために、枕を共にする人の心を冷たくしてはいけないのよ」
彰人は大奥様の意図を理解した。
「離婚はしませんから」
大奥様は満足して頷いたが、詩織は我慢できなかった。
「立派な兄を演じておきながら、深い愛を持つ夫も演じるなんて、疲れないの?」
彰人は今夜ずっと怒りを抑えてきたが、今や彼女を見ると、目の中に残っていた優しさはほとんど消えた。
「詩織、今日は十分に譲歩してやったんだ。ほどほどにしておけ」
ほどほどに?
まさか彼に譲歩してもらうためにこんなことをしたと思ってるの?
詩織はますます腹が立った。
ちょうど何か言おうとしたとき、高橋が冷笑した。
「またあなたの思い通りになったわね。刃物を持って見せかけるだけで、男に慰めてもらおうという算段でしょ。あなたの両親が生きていたら、こんな安っぽい娘を生んだことに激怒するでしょうね」
詩織の目に冷たい光が走り、先ほど置いたばかりの刃物を手に取り、高橋に向かって振り下ろした。
刃先が高橋の耳元をかすめ、束ねた髪が床に落ちた。それで高橋はようやく気が付き、自分の後頭部に手を伸ばした。
詩織は刃物を置いた。
「あなたの舌なら、切り落とせるけど?」
高橋は即座に崩れ落ちた。
「私の髪が!二十万円以上もかけてケアした髪が!見て、あなた…」
恭介も怒った。
「詩織、よくも義母の髪を切ったな。土下座して謝罪しろ!」
「また調子に乗ったわね!」
大奥様が詩織の前に立ちはだかった。
「詩織が両親の失踪で、トラウマになっているのを知っておきながら、あんたの妻は何度も彼女を刺激した。今まで我慢してきて、しかも実際に傷を残せなかっただけでも、優しい方よ」
「母上、なんで彼女だけを庇うんだ」
大奥様は彼の鼻を指さして言った。
「あんたの妻の今の発言、もう忘れた?それとも耳が遠いの?」
「あんたの継娘に福田の苗字をくれてやったからといって、詩織と同じ土俵に入れたと思うなよ。彼女が戻ってくるのは許さないわ。死ぬとして、余所で死ねばいい」
「覚えておくのよ、福田家の名誉を汚す者は、誰だろうと、先祖のところに送って、謝らせるわ!」
これを聞いて、恭介は背筋が冷たくなった。
「二人とも位牌堂に行きなさい!」
激怒した大奥様に、恭介は逆らう勇気もなく、まだ諦めていない高橋を引っ張っていった。
「お婆様、そんなに怒ると、血圧が大変ですよ」
彰人が慰めた。
福田大奥様は深呼吸を二回した。
「あなたたちも、本当に孝行心があるのなら、早く曾孫を産んでおくれ。子供さえできれば、二人の心も一つになるだろうね」
気のせいなのか、子供の話を聞かれると、詩織はお腹が痛み始めた。
彼女と彰人は一年間子作りを頑張ったが成果がなかった。本来なら悲しいことだ。
しかし、もしこの結婚が本当に偽りで、もし彼女が本当に美雪の代わりに過ぎなかったとしたら、子供がいないことはむしろ幸運かもしれない。
彼女は無意識に腹部に手を当てた。彰人は彼女の傷がまた痛んでいると思い、急いで彼女を支えようとした。
しかし詩織は彼の手を振り払い、大奥様にお辞儀をすると、一人で外へと歩いていった。
福田大奥様はため息をついた。
女性がひとたび疑いから確信に変わると、もはや簡単な言葉では心を取り戻せない。
「中山(なかやま)、私からの用事だわ」
……
何度か離婚を切り出そうとしたが、大奥様に言わせてもらえなかった。
詩織はほぼ駐車場に到着したが、急に彼と同じ車に乗るのが嫌になり、振り返った瞬間、ほとんど彰人と抱き合うように衝突しそうになった。
「何か忘れ物か?」
彰人はさりげなく彼女の腰に手を回した。
詩織は彼を押しのけた。
「自分でタクシーを呼ぶから」
彰人の口調は冷たくなった。
「まだ意地を張るのか?」
詩織はあきれた。
「あなたが妹を守るために、寛大な心で応援できないのが、意地を張っているように見える?」
彰人の瞳は濃い墨のようだった。
「いいか、俺が美雪の面倒を見るのは責任感からだけだ。他の目的などない」
詩織は失笑した。
「責任感ね。その責任感のために、手術台で死にかけた妻を捨ててまで、彼女の元へ迷いなく駆けつけたのね。詳しく説明してもらえるかな」
彰人の目の中の暗い潮流は一瞬で消えた。
「それはいずれ、君に教えるから」
詩織は彼の言葉に失望と寂しさを込めて笑った。
「結婚して四年、私は一度でも本当の答えを聞けなかった。これが私の結婚生活よ。彰人、私は自分の夫が他の女性の世話をしているのに、何も感じずにいられるほど、心優しくないの。私たちは…」
離婚という言葉を口にする前に、執事が追いかけてきて、彼らの会話を中断させた。
「若奥様、こちらは大奥様が先日、宝玉館で買われたアクセサリーです。ですが、買って来てから、大奥様には合わないと気付きまして、若奥様に渡すようにとのことでした」
執事は黒檀の木の箱を差し出した。
詩織はそれを受け取り、開けた。
水のような艶やかな玉の腕輪で、ちょっとした古風な感じをもたらし、彼女よりも、大奥様がつけた方が似合うに決まっている。
彰人は大奥様の意図を見抜き、ため息をついた。
「大奥様は回りくどいやり方で機嫌を取っているんだ。彼女の心遣いを無駄にしてはいけないよ」
心遣い?
大奥様からの注意じゃなかったの?彼女にはお金が必要で、福田家からの毎月二千万円の小切手がないと、彼女の実家は支えられないと暗示しているのではないか?
案の定、次の瞬間、中山は続けた。
「若奥様、大奥様が仰るには、この腕輪が気に入らない場合は、壊してしまっても構わないとのことでした。壊れたものは、壊れる運命にあるので、強引に求めようとしても無駄だとおっしゃいました」