第5話:空っぽの真実
[刹那の視点]
「刹那?」
玄関の外から聞こえる冬弥の声に、私は手を止めた。
鍵を回す音。ドアが開く。
「おい、刹那!」
冬弥の足音が廊下に響く。そして、寝室のクローゼットの前で立ち止まった。
「何だ、これは……」
空っぽになったクローゼットを見つめる冬弥の声が、震えている。
私はリビングのソファに座ったまま、振り返らなかった。
「今度は家の中を空っぽにして、家出でもするつもり?三歳児かよ」
冬弥が私の前に立ちはだかる。顔は怒りで紅潮していた。
「言いたいことはそれだけ?」
私は冷静に答えた。
冬弥の表情が変わる。いつもなら謝罪や弁解をする私が、まるで他人事のように応答したからだ。
「お前、本当におかしくなったな」
「おかしいのはあなたよ」
私は立ち上がった。
「私の『かわいいところ』って、あなたの浮気を黙って見過ごすことだったのね」
冬弥の顔が青ざめる。
「何を——」
「美夜さんとのデート、楽しかった?私が病院で倒れている間に」
私の言葉に、冬弥は何も答えられなかった。
「この数日は家には帰らない」
冬弥が吐き捨てるように言い、玄関に向かう。
ドアが勢いよく閉まった。
私は一人になった静寂を、深く吸い込んだ。
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冬弥は車の中で、ハンドルを強く握りしめていた。
刹那の変わりようが理解できない。いつもなら泣いて謝る妻が、まるで氷のように冷たくなっている。
「美夜に相談しよう」
冬弥はスマートフォンを取り出し、美夜に電話をかけた。
「冬弥?どうしたの?」
「刹那の様子がおかしいんだ。家出の準備をしてる」
「あら、大変ね。でも、放っておけばいいんじゃない?どうせ戻ってくるわよ」
美夜の声は、どこか楽しそうだった。
「そうかな……」
「心配しないで。私がいるじゃない」
電話を切った冬弥は、そのまま美夜のマンションに向かった。
実際に、冬弥は一週間家に帰らなかった。
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[刹那の視点]
一週間の静寂は、私にとって最高の贈り物だった。
誰にも邪魔されず、荷物の整理を進める。思い出の品々を段ボールに詰めながら、不思議と心は軽やかだった。
リビングを見回すと、皮肉な光景が目に入る。
残されたソファセットとハンモックチェア。美夜がSNSに投稿していたのと全く同じモデル。
私が選んで買った家具を、冬弥は「センスが悪い」と言った。でも美夜が同じものを持っていると知った途端、急に気に入ったようだった。
「馬鹿みたい」
私は小さく笑った。
土曜日の朝、私は二つ隣の区にある公園に向かった。知人に会う可能性を避けるためだ。
フリーマーケットの会場は、家族連れで賑わっていた。私は端の方にブルーシートを敷き、段ボールから品物を取り出す。
未使用のブラウス、読まなくなった本、昔集めていた食器。どれも私が選んで買ったものばかり。
「これ、いくらですか?」
若い女性が、小さなフォトフレームを手に取った。
「三百円です」
「可愛いですね。買います」
女性が笑顔で代金を渡してくれる。
私の選んだものを、誰かが「可愛い」と言ってくれた。それだけで、胸が温かくなった。
「ママ!」
突然、聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、怜士が走ってくる。その後ろに冬弥と美夜の姿が見えた。
「あ……」
怜士が私の前で立ち止まる。そして、ブルーシートの上に並んだ品物を見つめた。
「これ、僕のミニカー!」
怜士が手を伸ばそうとする。私はそれを制した。
「これは私が買ったものよ」
「嘘だ!僕のだ!」
「冬弥が『ガラクタ』って言ったから、処分することにしたの」
私の言葉に、冬弥の顔が強張る。
「刹那、何してるんだ」
冬弥が私の前に立った。美夜が彼の腕に寄り添っている。
「俺たちの物を勝手に売るなんて——」
「訂正するけど、それはあなたの車のモデルじゃないわ。私が買った車のモデルよ」
私は冷静に反論した。
「お前が買ったって、俺の金で——」
「私の独身時代の貯金よ。レシートも残ってる」
冬弥の言葉が詰まる。
その時、冬弥の視線が一点に釘付けになった。
ブルーシートの隅に置かれた、空のフォトフレーム。
結婚写真を飾るはずだった、あのフォトフレーム。
「これは……」
冬弥が震え声で呟く。
「なんで写真が入ってないんだ!」
「え?最初から空っぽだったんじゃなかった?」
私はわざとらしく首をかしげた。
冬弥の顔が真っ赤になる。
「ふざけるな!俺たちの結婚写真が——」
「あら、神凪さん」
美夜が割って入ってきた。
「夫婦喧嘩なら、家でやったらどうかしら?」
美夜の声は優しげだったが、目は冷たく光っている。
私は立ち上がった。
「自分の妻の前で、他の女に腕を組ませたりしない」
美夜の顔が一瞬歪む。
「それが、まともな夫のすることよ」
私はブルーシートを畳み始めた。
「刹那!」
冬弥が私の腕を掴もうとする。でも、私は振り払った。
「もう、関わらないで」
私は段ボールを抱え、その場を立ち去った。
後ろから冬弥の怒鳴り声が聞こえたが、もう振り返らなかった。
バス停で振り返ると、冬弥が美夜と怜士に囲まれて立っていた。
三人とも、私を見つめている。
でも、もう何も感じなかった。
バスが来た。私は乗り込み、窓際の席に座る。
バスが動き出すと、冬弥たちの姿が小さくなっていく。
私の新しい人生が、今始まろうとしていた。