朝の薬師ギルドは、人と瓶の音で落ち着かない。壁の魔法灯が淡い光を落とし、磨かれた床に薬草の匂いが流れていた。
「合格者、こちらへ」
受付の前で、係の男が札を掲げる。
ルークが近づくと、男は紙束を一枚抜いた。
「まずは現場経験だ。市街南区の診療所、応援に入ってくれ。患者が増えて手が回らん」
リリィが横で手を上げる。
「聖女見習いの同行許可を貰っています。私も行けますか」
「問題ない。薬の指示は薬師が出すこと、以上」
後ろの机で、先輩薬師らしき男たちがちらりとこちらを見る。
「新入りか」
「邪魔だけはするなよ」
「……聞こえてますよ」
ルークが苦笑まじりに返すと、男たちは肩をすくめた。別の机で帳面をつけていた女薬師が、ちらと視線だけ寄越して紙をめくる音が続く。朝のざわめきが、そのまま流れていった。
「ルークさん、行きましょう」
「ああ。地図は?」
「ここです。南区、柳通り」
二人はギルドを出た。空を輸送獣が渡り、石畳には朝の屋台が並ぶ。香辛料の袋が積まれ、魔導灯の芯を売る声が飛ぶ。
「今日は賑やかだな」
「市場の日だそうです。帰りにパン、買って帰りましょう」
「合格祝いの続きか」
「はい、もちろん」
柳通りの診療所は、朝から人でいっぱいだった。扉の外まで椅子が並べられ、魔法灯が下がっている。受付前で揉める声も聞こえた。
「支給薬はもう半分もないぞ」
「効きが鈍い患者が多い。熱と咳、呼吸が浅い。順番に回して」
白衣の薬師が眉間を押さえ、棚の瓶を探っている。待合では誰かの咳が続き、子どもをあやす歌が小さく混じる。
リリィが名乗る。
「聖女見習いのリリィです。応援に来ました」
「薬師のルークです。指示を」
「助かる。あちらの寝台が空いたところだ。高熱の子ども、呼吸が浅い。標準の解熱では下がらん」
その時、若い母親がルークの袖を掴んだ。
「どの薬でも効かないんです……どうか、お願いします」
ルークは落ち着いた声で頷く。
「試してみます。お子さんの名前は?」
「ミナです。昨夜から熱が……」
「わかりました。リリィ、手伝ってくれ」
「はい」
寝台の上、少女は額に布を当てられ、苦しそうに息をしている。ルークは脈を取り、胸の上下を確かめた。
「高い。呼吸も早い。咳は乾いてる」
診療所の棚を見て、支給薬草の箱を引き寄せる。
「銀葉草、赤根花、青晶茸……揃ってる。薄香草も少し」
リリィがミナの手を握り、穏やかな声をかける。
「大丈夫。すぐ楽になります。ここにいますからね」
ルークは手を洗い、器具を並べた。火口に小さな炎を点す。
「温度は弱火。銀葉草は時間をかけすぎると効きが落ちる」
「はい」
「赤根花は根の皮を薄く剥いで、刻みは揃える。青晶茸は先に処理、毒気を触媒に変える」
周囲の薬師が遠巻きに見ている。
「触媒を先に?」
「また変なのが来たな」
ルークは気にせず、銀葉草をほぐして鍋に入れた。弱火で静かに煎じる。
赤根花は刃を滑らせる音だけが残る。
青晶茸は石皿に広げ、薄く均一に熱を当てた。匂いは漏らさず、温度はぶれない。
「ルークさん、ミナちゃんの額、熱が上がりきってます」
「ちょうどいい。銀葉草、今だ」
鍋の縁で小さな泡が均一に立つ。ルークは泡の速さを見て、赤根花を三度に分けて落とした。
「ここで焦らない。色が濁らないように」
「はい」
青晶茸は半透明になった芯だけを残して砕く。乳鉢の音が静かに続き、砕けた粉が光を受けて沈む。
「触媒、投入」
濁りが一瞬だけ広がり、すぐ澄んだ。ルークは器を水盆で少し冷やす。
「甘味をわずかに。薄香草、指先ひとつ」
「飲みやすくするんですね」
「子どもには大事だ」
小瓶に移して、光に透かす。琥珀色が均一だ。
「ミナちゃん、少しずつ飲もうか」
リリィが背を支え、ルークが匙で口元へ運ぶ。少女の喉がいくつか動いた。しばらくして、肩の上下がゆっくりになっていく。
待合のざわめきが、少し引いた。近くの椅子にいた老人が、息をつめる気配だけ残す。
母親が息を呑む。
「……呼吸が、落ち着いてる」
ルークは脈を再度取った。
「下がってきています。あと二口」
少女は目を薄く開け、リリィを見た。
「……あったかい」
「よかったね。もう少し飲もう」
飲み終えるころには、額の熱がわずかに引き、頬の赤みが落ち着いていた。ルークはメモを取り、紙を差し出す。
「昼前にもう一度、半量。夜は様子を見て、無理はさせないで。水分を」
母親は何度も頭を下げ、涙声で続けた。
「ありがとうございます……本当に……この子、また外で、走って笑えますか」
ルークは短くうなずく。
「ゆっくりでいい。数日は安静に。咳が引いたら、少しずつ。笑えるようにします」
母親の肩の力が抜け、指が子の手を優しく包んだ。「よかった……」と小さな声が落ちる。
近くの薬瓶に触れていた手が一つ止まり、遠巻きに見ていた数人が言葉を失ったように黙り込む。
遅れて、薬師の一人が近寄る。
「……効いたのか?」
別の男が肩をすくめる。
「たまたま当たっただけかもしれん」
ベテランらしき薬師が手順書を見ながら渋い顔をした。
「確かに効き目はある。だが、あの青晶茸の処理は危うい。失敗すれば毒気が出る」
リリィが一歩前に出る。
「ここで救われた命を、どうか認めてください」
言葉は静かだが、よく通った。周囲はまた黙り、匙の音だけが戻った。
所長らしき初老の男が奥から出てきた。
「助かった。今日だけで三十人は来ている。君たちがいて助かった」
「依頼書に署名をお願いします」
「もちろんだ」
所長は判を押し、紙をルークに渡した。
「また手が要る時は頼む」
「はい。いつでも言ってください」
往路と反対の流れに押されながら、二人はギルドへ戻った。市場はさらに賑わい、空には小さな配送鳥が行き来している。
「ミナちゃん、落ち着いてよかったです」
「うん。飲みやすさは正解だった。君が横で支えてくれたのも大きい」
「えへへ、役に立てました」
ギルドに着くと、受付嬢が顔を上げた。
「お帰りなさい。報告を」
ルークは依頼書と簡単な記録を差し出す。
「南区診療所、応援完了。解熱一件、処置指示と服用紙を添付」
受付嬢はぱらぱらと目を通し、淡く頷いた後、少しだけ間を置いた。
「……ふむ。現場からこういう報告、久しぶりですね。記録は薬師長にも回します。手順の共有、検討されるでしょう」
「そうですか」
「次の依頼は明日以降で」
「わかりました」
ギルドの柱の陰に、黒衣の影が立っていた。視線が一瞬だけ重なる。男の唇がかすかに動いた――言葉にはならない小さな形だけ。次の瞬間、外光の中へ溶けた。
「ルークさん?」
「いや、何でもない。宿に戻ろう」
外に出ると、夕方の風が涼しい。大聖堂の鐘がひとつ鳴った。
リリィが横で小さく笑う。
「今日も一人、助けられましたね」
「ああ」
ルークは肩の荷を持ち直し、歩き出した。
「明日は服用紙をもう少し簡単にしよう。図を増やす」
「描きます。絵は任せてください」
「頼りにしてる」
二人の影が並ぶ。石畳に魔法灯がともり、街は夜の支度を始めていた。