朝の薬師ギルドは、瓶と秤と紙の音で落ち着かない。
壁の魔法灯が静かに灯り、磨かれた床に薬草の匂いが薄く降りていた。
掲示板の前で足が止まる。新しい紙が一枚、まっすぐに貼られている。
「関係者呼出……あ、これ、師匠の字です」
リリィが小さく息をのむ。
「薬師長グレン・フォルセティ」
「早いな」
ルークは紙面を一瞥し、肩のバンドを軽く締め直した。
「報告書、もう通ったか」
廊下へ向かうと、若手の薬師が二、三人、声を潜めていた。
「封印、壊れてたって」
「毒霧狼まで出たらしいぞ」
「例の異端……いや、新人が対処したんだと」
リリィが歩幅を合わせる。
「……行きましょう」
「うん」
薬師長室の扉は無駄のない木目で、金具がよく磨かれていた。
返事を待って入ると、室内は整然としている。瓶は高さで揃えられ、帳簿は背表紙が手前を向いて並ぶ。窓の光で埃ひとつ目立たない。
机の向こうで、グレン・フォルセティが立ち上がった。
灰色の外套、規律の匂いをまとった視線。
「来たか。座りたまえ」
ルークが会釈し、リリィも背筋を伸ばす。
グレンはまず、封印破壊の報告書に指を置いた。
「君の行動は迅速で、記録も正確だった。被害を出さなかった点は評価する」
「ありがとうございます」
ルークが短く答える。その声が静まるのを待って、グレンは表情を変えずに続けた。
「……だが、使用した薬はいくつか、正式な認可配合ではない。応急処置で済ませるには過ぎた行為だ」
乾いた紙の音が一枚、めくられる。
「王都の森で、規格外の薬を投げる。その判断の重さを理解しているか」
ルークは視線をぶらさない。
「現場で命が削られていく時、迷う暇はありません。道具は使い方です。炎は抑え、圧で弾き、毒霧には嗅覚攪乱と麻痺で足を止めました。樹も地形も壊していません」
リリィが師匠の顔とルークの横顔を交互に見た。
「現場は、あの配合で助かりました。私がその場にいて、見て、癒やしました」
グレンは頷きをひとつだけ落とし、しかし言葉は引かない。
「命を守る手段は、制度の中にも用意されている。正規の結界補修部隊、標準配合、連絡手順。君は“枠外の成功”を、成功として誇ってはいけない」
「誇ってはいません」
ルークは淡々と返す。
「繰り返す予定もない。必要だから使っただけです」
部屋の空気が一段、張る。リリィが小さく息を吸った。
「師匠……」
グレンは二人をまっすぐ見た。
「薬師は“奇跡”を起こしてはならない。奇跡は再現できない。再現できない薬は、制度にとって脅威になる」
ルークは短く考え、それから言葉を選ぶ。
「再現の議論は、救命の後でもできます。誰かが倒れている横で、帳簿を開いている時間はありません」
一瞬、静かになった。魔法灯の芯が小さく鳴る。
リリィが控えめに口を開く。
「……師匠、現場の声も必要です。紙に描いた服用の図が、街で役に立っています。あれも最初は“規格外”でしたが、今は依頼の条件に入っています」
グレンは視線を落として帳簿の角を揃え、指先を離した。
「現場の声を拾うのは、薬師長の仕事でもある。だからこそ、私は拾う。だが——」
顔を上げる。
「“感情で動く薬師”を放置すれば、制度は崩れる。制度が崩れれば、救える命が減る」
ルークはそれ以上、反論を重ねなかった。ただ、机上の瓶を一瞥してから、言う。
「では――制度の中で通る形に、私の手順を整えます。材料、温度、投入の順、許容誤差、使用範囲、禁忌。全部記録します」
リリィの目がわずかに明るくなる。グレンもまた、感情を大きく動かさないまま、短く頷いた。
「……それができるなら、話は早い」
帳簿が閉じられる音。グレンは次の紙を手元へ引き寄せた。
「ただし、予防措置を取る。これ以上、君が独断で薬を用いた場合は、正式に調査を行う。——今日から、監査官を同行させる」
「監視、ですか」
ルークは声色を変えない。
「監視ではない。確認だ」
グレンははっきりと言う。
「君の薬が正しければ、制度の秤にかけても正しいはずだ。現場での判断、使用範囲、結果。そのすべてを、第三者が記録する」
リリィが目を丸くする。
「今日から、ですか」
「今日からだ」
グレンは淡々としている。
「私は敵ではない。だが、“危険な正義”は、放っておけない」
ルークは目を伏せ、息を整えた。
「……了解しました」
「よろしい」
グレンは席を立ち、
「君たちの“服用紙”は続けていい。あれは安全性の向上に寄与する。街路巡回の依頼は優先的に回す。ただし——」
視線がルークへ戻る。
「結界に関わる事案は必ず報告を。独断での封印介入は、懲戒の対象だ」
「承知しました」
短い面談はそこで終わった。立ち上がって礼をすると、グレンはほんの一瞬だけ、リリィにだけ柔らかい目を向けた。
「体は、無理をするな。聖印の光は、使えば減る」
「はい、師匠」
扉を閉めると、廊下の空気が少し軽い。遠くで瓶の触れ合う音がして、朝の喧噪が戻ってくる。
リリィが肩の力を抜き、苦笑いする。
「師匠、変わってませんね……正しいけど、ちょっと怖いです」
「正しさが一番怖い」
ルークは歩き出しながら言う。
「間違っていても、止まらないことがあるから」
「でも、私たちは救いました」
リリィは前を見て言葉を続ける。
「紙も広まってます。今日も依頼、来てますよ」
「そうだな」
ルークは頷いた。
「だから次は、“証明”する。制度の中でも通る形で」
階段を下りると、受付嬢が呼び止めた。
「お二人。連絡です。午後の巡回に監査官が同行します。集合は裏口へ」
机から一枚、薄い札が差し出される。
「監査官提出用の記録紙です。服用紙の控えも別綴じに」
「了解」
ルークが受け取ると、受付嬢は小さく微笑んだ。
「それと……南市場の露店から、感謝が三件。紙が役に立ったそうです」
リリィの表情がぱっと明るくなる。
「よかった。じゃあ、図をもう一枚増やします。『やめ時』を大きく」
「字は任せる」
ルークも口の端を少し上げる。
「監査官にも渡しておこう」
一度、作業卓に寄って瓶と紙を整える。
羽根ペンの先をリリィが揃え、ルークは配合表の欄を増やした。
材料の産地、乾燥度、投入温度、時間、許容差。書きながら、手は迷わない。
「ルークさん」
「ん」
「師匠の言ってること、全部否定じゃないんですよね」
「そうだ」
「でも、現場は待ってくれない」
「だから、両方やる」
ルークは紙を重ね、革紐で束ねた。
「救って、書く。使って、示す」
裏口の扉が開く。
外気は少し冷たく、空は高い。
石畳を渡る風に、乾いた薬草の匂いが混じる。遠くで鐘が二度、短く鳴った。
「さ、行きましょう」
リリィが地図を胸に抱え、笑う。
「今日の巡回は南市場から。紙は二十枚、予備に十」
「了解」
ルークは鞄の重みを確かめ、歩き出した。
――同じ頃。
薬師長室では、グレンが机上の書類をもう一度、順に指でなぞっていた。
封印破壊の報告、毒霧狼の出現、応急対処の記録。服用紙の写し。
字は読みやすく、配合は細かく、温度と時間が書かれている。
「……逸脱者が、また現れたか」
独り言のように呟き、ふと目を細める。
「だが、彼は“壊す側”には見えない」
帳簿を閉じる音が静かに落ちた。
彼は呼び鈴に手を伸ばし、確認班の名前を書き込む。秩序は続いていく。
続けるために、見て、記す。
そして、枠外から届いた結果が本物なら——取り込む。
窓の外で魔法灯がひとつ、昼の明るさに負けずに揺れた。グレンは目を戻し、次の書類に印を置いた。
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