宮崎葵は顔を上げると、松本彰人と宮崎由紀が一緒に立っているのが見えた。彰人の体は数か所火傷しており、由紀は赤い目で泣いていた。
「由紀、松本先生はあなたにとても優しいわね」
「あなたが女子トイレに閉じ込められていると知った途端、松本先生はすごく心配して、何も考えずに飛び込んでいったのよ」
「そうよね、あんなに大きな火事で、消防士も来ていない時に、誰も入ろうとしなかったのに、松本先生ともう一人の男性だけが飛び込んでいったわ」
周りの看護師たちは羨ましそうな顔をしていた。由紀はそれを聞きながら、蜂蜜を飲んだかのように心が甘く満たされていた。
なんだ、彰人の心の中では、もう自分が姉より大事になっているのだ。彼女はこっそり彰人を見た。
彰人は顔に焦りを浮かべ、あたりを見回していた。葵を見つけると、人ごみをかき分けて歩み寄った。
「葵、大丈夫だったのか?さっきからずっと…」
「お姉ちゃん、大丈夫?うっ、さっきは彰人お兄さんが命がけで私を助けてくれたの」
由紀は怯えきった様子で、彰人の腕をつかんで離さなかった。
彰人は少し気まずそうだった。
「由紀が怖がっているけど、お前は大丈夫か?誰かが助けてくれたって聞いたけど。その人はどこだ?お礼を言いたいんだが…」
彰人は葵の後ろを見たが、ただ一人の男性の大きな背中しか見えなかった。その男性は煙で体が黒くなっており、顔もはっきり見えなかった。
葵は目の前の二人を冷ややかな目で見つめ、心の中の吐き気がどんどん強くなっていった。
「必要ないわ。私、用事があるから先に行くね」
葵は高橋健太にひと言お礼を言おうと思った。どんな形であれ、彼女とお腹の子は彼に感謝しなければならなかった。
振り返ったとき、健太はもういなかった。代わりに老人が見えた。
「看護師さん、心配したよ」
高橋様は葵を見た瞬間、老いた目に涙が浮かんだ。彼は葵の手を取り、頭からつま先まで全身を見た。
「おじいさん、無事で良かったです。さっき戻って探したのに、見つからなくて」
葵はほっとした。彼女は本来すぐに逃げ出せたはずだが、おじいさんが足腰が不自由で中に閉じ込められているかもしれないと心配し、引き返して探したため、かなりの時間を無駄にしてしまった。
おじいさんは見つからず、再び出ようとしたとき、突然つわりの症状が出て、自分の体力を過信していたことに気づいた。
「君という子は、もし何かあったら、ご家族に何て説明すればいいんだ」
高橋様は感慨深げに言った。
高橋家族のような大家族では、陰謀と策略が日常茶飯事で、それが高橋様を冷酷無情にし、簡単には人を信じなくなった。しかしこの看護師は、彼の身分も知らず、何の利益も求めず、純粋に彼に親切だった。
葵はどうということもないように笑い、どこ吹く風といった表情を浮かべた。
「おじいさん、私の母はもう亡くなってるし、他に年長の親戚もいないんです。父は新しい家庭を持って、私が生きるか死ぬかなんて、誰も気にしないんですよ」
高橋様の胸は何かが詰まったようになった。葵を見る目はさらに慈愛に満ちた。
「ふん、見る目のない奴だ。こんなに良い子を、お前の父親が可愛がらないなら、この老いぼれが可愛がってやる。今日からお前は私をおじいちゃんと呼びなさい。お前は私の本当の孫娘だ!誰かがお前をいじめたら、それはこの老人をいじめるのと同じことだ!」
高橋様は憤慨して言った。
「おじいさん…」
「何て呼んだ?」
葵はまだ少し戸惑っていた。なぜおじいさんは自分に「おじいちゃん」と呼ばせるのに、「お爺さん」ではなく「おじいちゃん」なのか。
「おじいさん、さっき救急室で、あなたは高橋氏の若社長のおじいちゃんだと言いませんでしたか?」
「ああ、分からなかったのか?あれは嘘だよ。年寄りは自慢話が好きでね。本当に私があの高橋氏の若社長のおじいちゃんなら、あいつの足を折ってやる。外で女遊びばかりしているからな」
高橋様は髭を吹かし目を見開いて怒っていた。あの小僧がすぐに逃げなければ、今頃は健太の足を折っていただろう。
葵は安心した。良かった、おじいさんは健太とは関係なかったのだ。
彼女はもう健太とは一切関わらないと決心していた。
おじいさんがまだ慈愛に満ちた目で彼女を見つめているのを見て、葵の心は柔らかくなった。家族の温もりを感じるのはずいぶん久しぶりだった。彼女は柔らかく呼びかけた。
「おじいちゃん」
ベントレーの中で、健太はくしゃみをした。顔の煤を拭った。
ふん、彼女がいるくせに見合いに来るなんて、最低だ。
健太は顔を曇らせた。
助手席に座っている近藤雅也は、後部座席の社長をこっそり見て、心の中で好奇心が湧いた。社長が救助に駆け込んだのは誰なのか、でも聞く勇気はなかった。
健太は葵を救った後、すぐに立ち去った。
彼はこれ以上そこに留まれば、あの女を絞め殺したくなると思った。
前回のバーの件を含めると、彼はあの女を二度救ったことになる。なのにあの女は、一言の感謝もなかった。
彼女のお腹の子は一体誰のものなのか?
男がいなくなったから、彼女は見合いに来たのか。
いや、そんなことは自分には関係ない。
「健太、お前はマゾだな」
健太は自分を呪い、無理やり思考を引き戻した。
「見つかったか?」
彼はようやく希子のことを思い出した。
「社長、部下が希子の家を捜索しましたが、ビデオは見つかりませんでした。どうやら彼女はかなり隠し場所を工夫したようです」
「彼女に航空券を予約して、国外に送り出せ。それから、最近誰と連絡を取っていたか調べろ」
健太はずっとこの件に違和感を感じていた。自分はどうやって気を失ったのか、あの謎の女性は一体誰なのか。
健太はさらに一日待った。
日曜日の朝早く、希子は海外行きの航空券を購入し、近藤が部下を連れて彼女を出国審査場まで送った。
出発前、希子はUSBメモリを取り出し、近藤に手渡した。
近藤は希子が中に入るのを見届けてから、電話を取り出し、ある番号に電話をかけた。
「もしもし、山本さんですか?」
「あなた誰?」
「昨日ご連絡した者です。うちの若社長から、あなたのご主人の愛人、希子が空港の出国審査場にいるとお伝えするようにと」
そう言うと、近藤は電話を切った。
しばらくすると、太った体つきで金銀の装飾品を身につけた中年の婦人が数人の仲間を連れて、怒り狂って出国審査場に向かってきた。
その後、響くような平手打ちの音と女性の泣き声が聞こえてきた…
近藤はUSBメモリを持って健太のところへ向かった。
健太はUSBを受け取ると、運転手と近藤に車から降りるよう指示し、自分のノートパソコンを取り出してUSBを挿した。
USBには希子が盗撮したビデオが保存されていた。
健太はUSBを開いた。
画面には、暗い映画館で女性と男性が現れた。
健太は顔を曇らせながら、少しずつ見ていった。
一時間以上もじっと画面を見つめ、ビデオの中の女性が誰なのか確かめようとした。
暗闇の中では、女性の顔がはっきり見えなかった。
健太が希子に騙されたのではないかと思い始めた時、突然、女性が身体を回転させ、上に座った。
ちょうど映画のスクリーンから光が女性の顔に当たり、海藻のような黒髪が女性の白い肩に落ちていた。彼女の赤い唇はバラの花びらのようで、ゆっくりと顔を向けた…
総合病院の火災後、病院はすぐに通常の秩序を取り戻した。
病院で煙を少し吸い込んだ葵は、家で一日休んだ。
今日は日曜日、斎藤霞と手術の約束をした日だった。