第3話:偽りの診断
地方病院の診察室は、消毒液の匂いが充満していた。
「雪咲さんの足の状態ですが……」
老医師は重々しく口を開いた。レントゲン写真を見つめながら、深刻な表情を浮かべている。
「壊死が進行しています。このままでは切断が必要になるでしょう」
響の顔が青ざめた。
「切断って……まさか」
「膝から下です。それに内臓にも相当なダメージがあります」医師は続けた。「胃腸の完全な回復には、少なくとも十年、二十年かかるかもしれません」
「ふざけるな!」
響が立ち上がった。椅子が勢いよく倒れる。
「ヤブ医者が!そんなはずがあるか!」
医師は困惑した表情で響を見つめた。しかし響の怒りは収まらない。
「彩花がそんな……そんな重傷なわけがない!」
その時、咎音が響の袖をそっと引いた。
「響兄、落ち着いて」
咎音の声は優しく、なだめるようだった。
「皇都に戻りましょう。兄が診てくれれば、きっと何とかなるわ」
響の荒い呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「朽葉(くちば)が?」
「ええ。兄はトップクラスの外科医よ。この先生より、ずっと腕がいいの」
咎音は医師に申し訳なさそうな表情を向けた。しかしその瞳の奥には、計算された冷たさが宿っていた。
皇都にある影宮(かげみや)朽葉の診察室は、最新の医療機器で溢れていた。
「で、患者はどちら?」
朽葉は白衣を着たまま、無愛想に尋ねた。響よりも背が高く、鋭い眼光が印象的な男だった。
「彩花です」響が答える。
朽葉は彩花を一瞥すると、ため息をついた。
「大したことないよ。ただの外傷だ」
響が目を見開いた。
「え?」
「どうせ彩花のいつもの芝居だろ?」朽葉は冷笑を浮かべた。「同情を引こうとしてるんだ」
朽葉の診断は、地方病院の医師とは正反対だった。
「でも、あの医師は切断が必要だと……」
「あんな田舎の医者の言うことを真に受けるな」朽葉が響を睨みつけた。「それより、咎音の手はどうなってるんだ?」
響の視線が咎音の三角巾に向く。
「まだ完全には……」
「まだ?」朽葉の声が低くなった。「事故からもう一週間も経ってるんだぞ!」
朽葉は響に詰め寄った。
「雪咲なんかより、咎音の方を心配したらどうなんだ!」
響は言葉を失った。朽葉の迫力に圧倒される。
「響兄」
咎音が小さく呟いた。
「私は大丈夫よ。響兄がそばにいてくれれば、それだけで私は幸せ」
その言葉に、響の心は完全に咎音へと向いた。
彩花は全てを見ていた。
兄妹の完璧な芝居を。朽葉の嘘を。響の心が自分から離れていく様子を。
でも、驚きはしなかった。
彼らの悪意を、彩花はとっくに理解していたから。
――あの日のことを思い出す。
雪崩に巻き込まれる直前、彩花は一度危険を察知して身を引いていた。しかし咎音が再び近づいてきて——
「彩花姉」
咎音の声は甘く、無邪気だった。
「こっちの景色、とても綺麗よ」
彩花が振り返った瞬間、咎音の手が彩花の背中を突き飛ばした。
谷底へ転落していく彩花に向かって、咎音は言い放った。
「いっそここで死んじゃえば?どうせ帰っても邪魔者なんだから」
「この山には獣も多いし、エサになれば、それなりに役に立つんじゃない?」
その冷酷な笑顔が、彩花の記憶に焼きついている。
今、診察室で健気な被害者を演じている咎音と、あの時の咎音は同一人物だった。
彩花は静かに目を閉じた。
自分を陥れた者たちの手に、完全に委ねられてしまった。