見知らぬ番号だった。
「もしもし」
「時田望さんの母親ですか?」
「そうですが……うちの望に何かあったんですか?あなたはどなたですか?」
「派出所の者です。通報を受けて、時田望さんと思われる遺体を発見しました。確認のため、お越しいただけますか……」
その瞬間、美咲の耳の奥でブーンという音が鳴り響いた。
「……な、何を言って……」
車が音を立てて飛び出した。
クラクションの鋭い音で、美咲はハッと我に返った。赤信号を無視しかけていた。
慌ててブレーキを踏み込んだが、頭の中は真っ白のままだった。
交差点の向こう側のビルに、宮崎明人が海外のレッドカーペットを歩くニュース映像が流れていた。
美咲は震える手で明人の番号を押した。電話はすぐに繋がった。聞こえてきたのは、やはり石川霞の声だった。
「もしもし……」
「宮崎明人を出して」
「明人さんは今、休んでいます。時差の関係で休養を取っていて、このあと撮影もあります。今回の仕事は要求が高く、万全のコンディションが必要なんです。ご用件があれば私が――」
「明人を出して!」
霞の言葉を、美咲はぴしゃりと遮った。
「時田さん、それは……」
「彼を出せって言ってるのよ!電話に出させて!」
美咲は限界だった。押し殺した声が震え、ついに叫んだ。「早く、彼に電話を渡して!」
しばらくの沈黙のあと、ようやく明人の声がした。「美咲さん?どうしたんだ、久しぶりだね……」
その声には喜びと戸惑いが混ざっていた。
美咲は彼の言葉を遮った。「警察から電話があったの。望の遺体が見つかったって。確認に来てほしいって……」
電話の向こうから、ドンという鈍い音が響き、霞の慌てた声が重なった。
「美咲さん……嘘だろ……」明人の震える声が聞こえた。「そんなはずない。うちの望が、どうして……」
「昨夜一晩中探したのに見つからなかったの。あれが望じゃないことを祈ってる……うちの望は、絶対に死んでなんかいない……」
抑えていた涙が、ついにこぼれた。歯を食いしばり、滲む視界の中で信号が青に変わるのを見て、美咲はアクセルを踏み込んだ。
「美咲さん、運転中なのか?止まってくれ、危険だ……」
明人の焦った声が携帯から聞こえたが、
美咲はもう電話を切っていた。
どうやって現場に着いたのか、覚えていなかった。
ただ、気づいたときにはそこにいた。
一晩中探していた息子が見つかった。だが、担架の上で、息をしていなかった。
時田望は、美咲によく似て肌が白かった。だが今、その白さは透き通るほど冷たく、命の色を失っていた。
目を閉じた望は、相変わらず美しく、まるで眠っているようだった。ただ――もう、温もりがなかった。
その姿を見た瞬間、美咲の体は力を失い、床に崩れ落ちた。
「望……起きて……お願い、起きてよ……」
警察官が美咲を支えた。「お気持ちはお察しします……時田望さんは朝の散歩をしていた人に発見されました。発見時にはすでに死亡しており、初期検査では外傷は見つかっていません。溺死の可能性が高いですが、自殺か他殺かはまだ……」
「違う!」美咲は警察官の手を振り払った。「うちの望が自殺なんてするわけない!それに、水が怖くて近づきもしなかったのよ!」
溺れるなんて――彼はどれほど怖かっただろう。どれほど苦しかっただろう。
「そんなはずない……望は死んでない……」美咲は震える声でつぶやいた。「望、起きてよ。私が泣くのが嫌だって言ってたじゃない……ねえ、お願い……」
彼の手を引っ張った瞬間、望の腕がベッドの端からだらりと落ちた。
長く、白く、関節のはっきりしたその手。美咲が一番好きだった、あの手。
美しくて、いつも温かかった手。
震える指で掴んだ瞬間、美咲の体は震えた。
冬になると、望はいつも美咲の手を温めてくれた。小さな暖炉のように、優しく包んでくれたその手が――今は氷のように冷たかった。
真夏なのに、美咲の体は底冷えするように冷たかった。
「温めてあげるから……望、ママが温めてあげる。いつもはあなたがママの手を温めてくれたけど、今度はママの番よ。そうしたら、もう寒くないでしょう……」
両手で息子の手を包み、額に当てた。「ほら……これで温かくなるわ。力も戻るわよ……
あなたが言ってたじゃない、水のことは全部自分がやるって。重い荷物もあなたに任せてって。私の支えになるって言ってたじゃない……」
そばにいた看護師がそっと美咲を引き離そうとした。
「時田さん……どうかお気持ちを……」
引き離された瞬間、望の手が再び無力に垂れ下がった。美咲は声を上げて泣き崩れた。「望……起きてよ……お願いだから、起きて……!」
世界がぐるぐると回り、視界が黒く染まっていった。
何が起きたのかも分からないまま、美咲は意識を失った。
気がついたとき、前の義母・梅田美月(うめだ みづき)にベッドから引きずり下ろされていた。「私の望を返して!私の大事な孫を返して!」
美咲の襟元をつかんだ美月の顔は、怒りと悲しみで歪んでいた。
「あなた、母親として何をしてたの!? 望をどう育てたの!?自分にしか育てられない”って言ってたじゃない!どうして死なせたの!孫を返して!」
いつもは上品だった美月の声が、今は鋭く、刺すように響いた。
「私が育てていれば、こんなことにはならなかったのに……」
年老いた美月だったが、怒りの力はすさまじく、誰も引き離せなかった。そのとき――宮崎明人が現れた。「母さん、美咲さんを離して!」
明人はホテルのスリッパ姿のまま、目の下に濃い隈を作っていた。強引に美月の手を外し、倒れそうになった美咲を支えた。
「美咲さん……望はどこだ?」
その場にいた全員、医師さえも動けなかった。彼が突然現れた理由を、誰も理解できなかった。
美咲は首を振った。「今さら……戻ってきても遅いわ。もう、全部……遅すぎるのよ」
明人の体が揺れた。彼は医師の方を向き、かすれた声で言った。「望はどこですか……私は彼の父親です」
彼は、生前は一度も公の場で望を「息子」と呼べなかった。やっと口にできたのは、望が死んでからだった。
その場は静まり返り、次の瞬間、ざわめきが広がった。
石川霞は明人の後ろで目を閉じ、顔をこわばらせた。
それからは、望の死因の調査が始まった。
同じ日、宮崎明人と人気作家・時田美咲が結婚し、子供までいたというニュースが報じられた。
同時に、時田望の死亡の報道も流れた。
ニュースは一瞬で拡散し、
ネットはパンクした。
長年隠されてきた二人の婚姻関係は、息子の死をきっかけに世間へと晒された。
ネット上は嵐のような騒ぎとなり、「不仲」と噂されていた二人が、実は深く結ばれていた――その事実に、誰もが言葉を失った。