ペットクリニックの診察台には新しいペットシートが敷かれ、その上に子猫が置かれていた。医師が基礎的な検査をしているのを、吉田くきは横で見守りながら尋ねた。「先生、この子猫はどれくらいの年齢ですか?」
医師は子猫の口を開けて歯を確認し、「まだ小さいね、一歳には満たないよ」と答えた。
「そうなんですね」
「かなり大人しい子だな。こんなふうに触っても噛みつかないなんて。どこで拾ったんだ?」
「すぐそこの道です」くきは手を上げて入口の外を指差した。「車の往来が激しくて、命が危ないと思ったんです。本当におとなしい子で、捕まえるのもほとんど苦労しませんでした」
くきは角度を整えて猫の写真を撮り、甘粕葉月に送った。
小鳥はパクチーを食べない:【可愛いでしょ!】
甘粕葉月:【???ちょっと、どこから猫を拾ってきたの?】
出張中じゃなかった?
くきは事情を説明した。この猫のせいでロールスロイスに追突したこと、ついでに彼女に引き取らせようとしたことも添えて:【昔から言うでしょ、買うより譲渡、譲渡より誘拐。猫を飼いたいって言ってたじゃない?だからこの子を連れてきたの。一歳未満で、人懐っこいオスだよ】
葉月は呆れ返った。
火事場の真っ最中なのに、まだ猫のことを気にしているなんて。
彼女はもう一度くきから送られてきた写真を開いて眺めた。正直、この猫のどこが可愛いのか分からなかった。何度も見返して、自分に言い聞かせた——きれいに洗えば、一応は見られるかもしれないと。
一時の気の迷いで、彼女は承諾してしまった。
くきは眉を上げ、子猫に良い行き先が見つかったことに喜び、事故の憂鬱も忘れて葉月に冗談を言った:【「大橘大利」って言うじゃない?それなのに茶トラに出会ったら、どうしてこんなに不運なの?】
甘粕葉月:【今そんな時じゃないでしょ。まだ言葉遊びする余裕あるなんて】
子猫の検査結果を待つ間、くきは椅子に腰を下ろしてSNSに投稿した。「事故」の経緯を書き、これを素材にポッドキャストを録音するつもりだと告げ、詳細版の配信を宣伝した。
更新すると、家族や友人から心配するコメントが相次いだ。
くきは一律に返信した:【大丈夫よ、私は無事だから】
もし本当に何かあったなら、こうして足を組んでスマホをいじってはいないだろう。
そのとき、メッセージ欄に新しいプライベートメッセージが届いた。
月詠:【小鳥、その体験、小説みたいじゃない!占ってみたら、あなたの恋愛運が動き出すわよ!】
葉月と言うことが同じだなんて、小説を読みすぎて頭がおかしくなったんだろう。いや違う、彼女は小説を書きすぎて頭がおかしくなったんだ。
くきはどう返すべきか分からず、適当に文字化けを送った。
月詠:【有人対応に切り替えます】
くきは歯ぎしりして、そのチャットのスクリーンショットをSNSに投稿し、「これはどういう意味?」と書き添えた。
医師が印刷された検査結果の束を一枚ずつ確認しているのを見て、くきは慌ててスマホをしまい、真剣に耳を傾けた。
「胃腸に少し問題があって、貧血気味ですね。これは野良猫によくある症状で、大きな病気ではありません。心配しなくて大丈夫です。今はまだワクチンは打てないので、数日後にまた来てください。駆虫はさっき済ませたので、帰ってもしばらくは入浴させないでください」
「分かりました。ありがとうございます」
くきは大きめのキャリーケースを選び、猫用品をまとめて買い、医師と約束を交わした。少し後で別の友人が猫を迎えに来ることになっていた。
*
田中彰は雲瀾ホテルで畑中樹と顔を合わせた。
遠くからでもすぐに分かる人物だった。目立つワインレッドのシルクシャツを着て、髪を大きく後ろへ梳かし、大股で歩いてくる姿はまるで派手な蝶のよう。近づくと香水の匂いが漂った。彼は田中の肩を叩き、声を抑えきれずに言った。「佐藤バカだと思わない?空港のVIP通路で人を待ち伏せするのは知ってたけど、その人を雲瀾に連れてくるなんて。これじゃお前の目の前じゃないか」
田中彰は肩の手を払いのけ、無表情で答えた。「灯台下暗しって言葉を知らないのか?」
「なるほどね」畑中は急に納得して何度も頷き、エレベーターに一緒に乗り込みながら話題を変えた。「ところで、車はどうしたんだ?後ろがあんなふうになってて。間違ってなければ、先月買ったばかりだよな?」
「車」という言葉を聞いただけで、田中彰はまるでスイッチが入ったかのように、澄んだ透き通った瞳を思い出していた。
まるで取り憑かれたようだった。
田中彰は鼻筋を摘み、低い声で言った。「また後で話す」
エレベーターを出ると、柔らかなカーペットが足音を吸い込み、音は消えていった。田中彰はスマホを見て、lineの発見に赤い点があるのに気づき、ついタップした。
フィードに表示されたアイコンは見覚えのないものだった。漆黒の夜空に咲いた花火。氷のような青、金色、真紅、白の炎が入り混じり、眩いほどに華やかだった。
ニックネームも知らないもので、「小鳥はパクチーを食べない」とあった。
ああ、自分の車にぶつけたあと、野良猫を捕まえに行ったあの女の子だ。
彼は彼女の表示名を変更していなかった。
彼女の最新の投稿はチャットのスクリーンショットだった。
「何を見てる?」畑中樹が顔を寄せ、「恋愛運が動き出す」という文字だけを目にして眉を上げた。「誰の恋愛運が動き出したって?お前か?」
田中彰は平然と画面をロックし、軽く目を上げて言った。「僕たちはまだ、私事を話すほど親しい間柄じゃないだろう」
畑中樹は首を傾げ、唇を尖らせて皮肉っぽく言った。「私事ねぇ〜」
その顔はまるで「loopy」のあのふざけたスタンプのようだった。
確かに彼と田中はよく「共謀」して難しいプロジェクトを分け合っていた。手段の苛烈さは互いに引けを取らなかったが、幸い敵ではなかった。もし敵同士だったら、これほど厄介な相手はいなかっただろう。
畑中樹は肩をすくめた。「田中社長、これだけ一緒にやってきて、少なくとも友達だと思ってたんだけどな」
「ビジネスパートナーだ」田中は淡々と訂正した。
畑中樹は憤慨した。「女とのベッドでもその冷たい顔のままなのかよ」
*
一般客を装い、くきはいくつかの候補レストランを調査し、細かく記録を残し、最終的に一つに絞った。
仕事を終えると、すでに夕方で、オレンジ色の夕焼けがソーダを吹きかけたように空の半分を染めていた。くきは宝箱のようなバッグからキャンディーの袋を取り出し、一つずつ口に入れた。
オレンジ味のグミは空の色に似ていた。彼女は車の窓を下げ、人差し指と親指でグミをつまみ、空を背景に写真を撮ってSNSに投稿した。
フォロワー五百万人超のアカウントには、すぐに「いいね」とコメントが押し寄せた。
まだ目を通す暇もないうちに、葉月から電話がかかってきた。「お嬢様、猫を受け取って、家に連れて帰って落ち着かせたところよ。今どこ?もう終わった?」
「ちょうど終わったところ。車で休んでる」
「じゃあ食事の場所を送るね。運転気をつけて」
最後の言葉には明らかな揶揄が混じっていて、くきは頬を掻いて、くすっと笑った。
葉月との待ち合わせは三十分後だった。ショートヘアの彼女が駆け寄ってくきを抱きしめ、その後ろには細身の男性がバッグを持ってついてきた。
分かれると、葉月は男性の腕に手を回し、くきに紹介した。「私の彼氏、蘇我大輔(そが だいすけ)よ」彼女は大輔を見上げて、明るい笑みを浮かべた。「これが話してた親友、吉田くき」
クッキー?
なるほど、葉月が彼女を「ビスケット」と呼ぶわけだ。
大輔は微笑みながら挨拶した。「初めまして。よろしくお願いします」
葉月は彼を軽く叩き、からかうように言った。「そんなに堅苦しくしなくていいのよ、小学生じゃないんだから」
大輔は首の後ろを撫でて、恥ずかしそうに目を伏せた。
葉月は三年以上付き合った元彼と結婚間近だったが、結納金で揉め、醜い別れ方をした。裁判沙汰にまでなりかけ、仕事も辞めて一人で大阪へ来て、新しい生活を築いた。そんな彼女の顔に純粋な笑顔が浮かんでいるのを見て、くきは心から嬉しく思った。
三人が席につくと、葉月はガラスポットを手に取ってくきに梅ジュースを注ぎ、思わずからかった。「どうしても理解できないわ。今回の商談は重要だって聞いたのに、どうしてあなたのボスは経験不足の新人をわざわざ出張に連れてきたの?」
くきは彼女の言外の意味を察した——あなたが行ったって、大した商談にならないでしょ。
喉に詰まり、くきは首を伸ばして反撃した。「人をバカにしないで!」
葉月は両手の指を組み、顎を乗せてじっと彼女を見つめた。
くきは首をすくめ、観念して打ち明けた。「数日前にスクラッチくじで大当たりしたのは知ってるでしょ?会社中に広まって、ボスも知ったの。それで、私が運がいいからって……」
彼女はまだ、ボスの言い方を覚えていた。素朴さの中に冗談めかした調子が混じっていた。「吉田さん、スクラッチで百万円当てたんだって?縁起がいいね。今度大阪への出張についてきなさい、見聞を広めるのもいいだろう」
葉月は吹き出した。「ああ、つまりあなたは吉祥物なのね」
くき:「……」
話しているうちに、自然と事故の話題になった。
くきは言った。「正直に言うと、追突したあと、胸の重荷が下りた気がしたの。やっぱり、幸の中に禍が潜んでるんだなって」
葉月:「でも『禍の中に福が寄りかかってる』って続きもあるのよ。つまり何か分かる?ビスケット、あなたの幸運がまた来るってことよ」
「……堂々巡りで、ここでバグってる感じ?」くきは冷えた梅ジュースを一口飲んだ。
「そういえば、車の持ち主とWeChatを交換したって言ってたわよね?」葉月は急に思い出したように手を擦り、目を輝かせた。「早く彼のフィードを見せて。あなたがイケメンだって褒めた男がどんな顔なのか、すごく気になるの」
この忙しい一日、くきはまだ車の持ち主のlineの発見を開いていなかった。葉月に促され、慌ててスマホを取り出した。