第8話:さよなら、冬夜
[雪音の視点]
「紅は病人であり、妊婦だ。そんな彼女が自分の体を傷つけるようなことをするわけがないだろう?」
冬夜の声が階段に響いた。
私は紅の腕を離した。
彼は私を見る目が、完全に変わっていた。まるで犯罪者を見るような、軽蔑と失望に満ちた視線。
二十年の付き合い、五年の時を共に過ごしてきた。
それでも、彼は私を信じてくれない。
「気分が悪い......」
紅が急に顔を青ざめさせて、冬夜にもたれかかった。
「すぐに先生に診てもらおう」
冬夜は紅を抱きかかえて、産婦人科の方へ走っていく。
私は一人、階段の踊り場に取り残された。
彼の背中が見えなくなるまで、じっと見つめていた。
もう、終わりだ。
その夜、冬夜は遅く帰ってきた。
五年間暮らした部屋で、私は一人でテレビを見ていた。
「ただいま」
冬夜の声に怒りがにじんでいる。
「おかえり」
私は振り返らずに答えた。
「雪音」
冬夜がリビングに入ってきて、私の前に立った。
「今日のことで、紅に謝ってもらいたい」
私はテレビのリモコンを置いて、冬夜を見上げた。
「謝る?何を?」
「とぼけるな」
冬夜の声が荒くなった。
「紅を階段から突き落とそうとしただろう」
「私は彼女を支えただけよ」
「嘘をつくな!」
冬夜が拳を握りしめた。
「少しは大人になって彼女を譲ってやれないのか?」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
譲る?
私が何を譲るって言うの?
冬夜は壁のカレンダーを見て、急に表情を和らげた。
「そうか、もうすぐ結婚式だな」
彼が歩み寄ってきて、私の肩に手を置いた。
「ハネムーンはハワイに決めたんだ。君の好きな海が見えるホテルを予約した」
私は何も答えなかった。
「雪音?」
冬夜が私の顔を覗き込んだ。
「疲れてるのか?」
私が口を開こうとした時、冬夜のスマートフォンが鳴った。
着信画面に「紅」の文字が表示されている。
冬夜は迷わず電話に出た。
「紅?どうした?」
『冬夜さん......怖いんです。一人でいると、また雪音さんに何かされるんじゃないかって......』
電話の向こうから、紅の震え声が聞こえてくる。
「大丈夫だ。今すぐ向かうからな」
冬夜が立ち上がった。
「雪音、明日の朝はホテルで待ってろ。結婚式の準備があるから」
彼は上着を羽織って、玄関に向かった。
「冬夜」
私が声をかけた時、ドアが閉まる音が響いた。
一人になった部屋で、私は呟いた。
「もう終わりにしよう、冬夜。結婚式はやめよう」
声は空虚な部屋に吸い込まれていった。壁にかかった時計の「カチ、カチ」という音だけが、静かに部屋に響いていた。
深夜から夜明けまで、私はソファに座って待っていた。
冬夜は帰ってこなかった。
携帯の通知音が鳴る。
『搭乗時刻まで2時間です』
私は立ち上がって、カレンダーに近づいた。
結婚式の日付に赤いハートマークが描かれている。
私はマーカーを手に取って、そのハートを黒く塗りつぶした。
そして、大きなバツ印を描いて、その横に書いた。
『冬夜、私たち終わりよ』
スーツケースを引いて玄関を出る。
タクシーが迎えに来ていた。
「空港まで」
車が動き出すと、私は心の中で冬夜に別れを告げた。
さよなら、冬夜。
あなたが私の書き置きを見つけた時、どんな顔をするのかしら。