第03話:五回目の裏切り
「赤ちゃんのお父さんは?」
医師の問いかけに、雫は力なく首を振った。
「いません」
嘘ではなかった。彰は父親としてそこにいなかった。妊娠を知った日から今日まで、一度も。
医師は雫のカルテをめくりながら、困ったような表情を浮かべた。
「そういえば、妊婦健診にもいつも一人でいらしてましたね。ご主人は忙しい方なんですか?」
雫の胸に鈍い痛みが走る。
妊娠発覚の日。つわりで苦しんだ日々。お腹が少しずつ膨らんでいく喜び。全て、一人で抱えてきた。
「ええ……とても」
医師は入院票を差し出した。
「今日は一泊していただきます。体調に異変があればすぐにナースコールを」
雫は震える手で入院票を受け取った。紙の重さが、失ったものの重さのように感じられる。
――そうだ。
心の奥で、何かが静かに決まった。
離婚しよう。
七年。追いかけ続けた七年間。
もう、十分だ。
雫はベッドを降り、廊下へ足を向けた。体はまだ痛んだが、心の痛みの方がはるかに深い。
その時だった。
「お前、ここまで追ってきたのか?」
聞き慣れた声に振り返ると、彰が美夜を支えながら歩いてくるのが見えた。
「美夜は手を怪我してるんだぞ。これ以上、何をするつもりだ!」
彰の声は怒りに満ちていた。まるで雫が加害者であるかのように。
美夜は彰の腕にもたれかかりながら、か細い声で言った。
「彰さん、私は大丈夫です。雫さんも心配してくださってるんですよね?」
美夜の手を見ると、確かに少し赤くなっている。しかしそれだけだった。
雫は自分のお腹に手を当てた。そこにはもう何もない。命を失った自分と、手が少し赤いだけで大騒ぎされる美夜。
声にならない絶望が胸を締め付ける。
「家に帰って待ってろ」
彰の冷たい命令が、雫の記憶の扉を開いた。
――もう二度と、美夜のために君を置き去りにしない。
彰がそう約束したのは、いつだったか。
美夜の帰国を空港まで迎えに行った日。雫が高熱で寝込んでいるのに、美夜のドラマ撮影に付き添った日。結婚記念日を忘れて美夜の誕生日パーティーに行った日。雫の両親との食事をすっぽかして美夜の相談に乗った日。
そして今日。
「チャンスは五回まで」
雫が彰に告げた言葉が蘇る。
五回目。
今回で、全て終わりだ。
「美夜の食事、買ってきてくれ。何か温かいものを」
彰が再び雫に命令する。
雫は静かに答えた。
「わかった」
もう何も感じなかった。怒りも、悲しみも、愛情も。全てが凍りついている。
雫が歩き去ろうとした時、彰の声が背中に響いた。
「君、その手に持ってるのは……何だ?」