哲也は気の抜けたように眉を下げ、何にも興味を示さなかった。
晶は椅子にもたれ、コーヒーの表面をぼんやりと見つめながら考え込んでいた。
霞は岡本家を訪れただけで、こんな爆弾みたいな話を聞くことになるとは思ってもみなかった。錦川市では、岡本家が田舎の孤児院から養女を迎えたことは誰もが知っており、昭明の隠し子ではないかと噂する者までいた。けれど、その子が本当は岡本家の実の娘だったなんて——。
彼女は咲へと視線を落とし、その目にはどこか含みがあった。つまり——普段は彼女の前で優越感を見せつけていた咲こそが、巣を占領していた“偽物の娘”だったということだ。
咲もなんて間の抜けた子なのだろう。自分に不利な話を、隠しもせずに自分から切り出すなんて。このことがいずれ雪村家の耳に入ったら――両家の縁組は一体どうなることか。
霞は内心でほくそ笑みつつ、わざと分からないふりをして首をかしげた。「咲、何の話?私にはよく分からないわ」
咲は胸の内でひそかに冷ややかに笑った。確かに、自分が“偽物の娘”だと知れ渡れば、周囲の態度が変わる――そんな不安はたしかにあった。
しかしそのとき、コーヒーを見つめていた晶がふっと笑い声を漏らした。「たぶん、あなたが馬鹿なんじゃない?」
霞の表情がわずかにこわばった。「晶、それってどういう意味?」
田舎者のくせにそんなに威張って——本物の娘だからって偉いとでも思ってるの?本当に岡本家が彼女を大事にしているなら、とっくに身分を公表しているはずよ!
咲は目を丸くして霞を見つめ、「これが分からないなんて……」と言いたげな表情を浮かべた。「霞姉さん、ほんとにもう少し本を読んだ方がいいわね」
雪絵でさえ、うっすらと霞に嫌そうな視線を向け、咲の言い分にうなずきたくなった。なにしろ霞は中退していて、どうしても教養が足りないのだから。
霞は「……」と固まり、
怒りで言葉も出なかった。
雪絵は咲の話を聞き終えると、しばらく黙り込んだ。穏やかな気持ちの裏側で、どこかふっと諦めにも似た感情がよぎっていた。
咲が、霞という部外者の前で取り違えの件を口にしてしまった以上、岡本家が公にしなくても、この話は錦川市の名家の間に広まるに違いない。
彼らは咲を実の娘として大切にしてきた。けれど外から見れば――養女は所詮、本物の娘には及ばないのだ。
雪絵は霞と使用人たちにちらりと目をやり、咲の手をしっかり握って言った。「何があっても、咲は私たちの娘よ。この件は私とお父さんでちゃんと対処するから、心配しなくていいの」
咲は雪絵に向かって、ほっとしたように笑ってうなずいた。
彼女はわざと霞の前で、この取り違えの話を口にしたのだ。そうでもしなければ、たとえ自分から身分を公表したいと申し出ても、岡本夫妻は応じなかったに違いない。
それは咲を守るためであり、同時に岡本家の面目を守るためでもあった。
しかし、彼女はもう“元の咲”ではない。晶の身分をこのまま堂々と奪い続けることなど、できなかった。
霞は雪絵の言葉を聞いた瞬間、バッグの上に置いた手がわずかにこわばり、長いまつげの陰からのぞく瞳に羨望の色が一瞬よぎった。
咲は本当に恵まれている——。
とはいえ、咲が可愛がられていることには利用価値もある。岡本家に来た本来の目的を思い出し、霞の目がぱっと明るくなった。庭を歩いていた咲にそっと近づき、さりげなく声をかける。「そういえば咲、叔父さんが最近投資した『酒を片手に語る桑と麻』って番組に、秋山の大物俳優を呼んだって聞いたんだけど?」
彼女は少し残念そうにため息をついた。「実はね、私、秋山さんのファンなの。でも芸能界に入ってから、一度もお会いする機会がなくて」
『酒を片手に語る桑と麻』は、昭明が出資した“田園暮らし”をテーマにしたバラエティ番組で、過去二シーズンはいずれも大ヒットし、多くの芸能人を売れっ子にした番組だ。