元夫は冷徹CEO、でも私の双子は絶対に渡さない！
作者: 楽希© WebNovel
章節 1: 二百億だ、子どもは堕ろせ
編輯: Pactera-novel
「二百億だ。子どもは堕ろせ」
白石希（しらいし のぞみ）は、その言葉に不意を突かれた。手にした妊娠検査報告書を、強く握りしめる。どうにか冷静さを保とうとした。
胸に巨大な石がのしかかっているようで、息、うまくできない。
「……なんて言ったの？子どもを、堕ろせって？」
耳鳴りがする。何もかもが、悪い夢のように感じられた。
希は顔を上げ、信じられない、という思いで彼を見つめた。
今日は、二人の結婚三周年の記念日だった。緊張と期待を胸に、妊娠したことを、伝えたばかりだったのに。
まさか、子どもを堕ろせだなんて。
しばしの沈黙、男の氷のような声が再び響いた。「美月が帰ってきた。この結婚は、もう終わりにするべきだ」
「この子は不慮の事故だ。生まれてくるべきではなくて、俺も望まなかった。この二百億は受け取れ。これまでの埋め合わせだ。他に何か望みがあるなら言え。法外なものでなければ、聞いてやる」
希の体躯が震える。しばらくして、ようやく自分の声を取り戻した。「……それって、離婚もするってこと？」
「ああ」男の声は薄っぺらく、冷ややかで、感情の欠片もなかった。
希は両手をきつく握りしめた。心臓をナイフで抉られたような、息もできないほどの痛みが走る。
相羽美月（あいば みつき）が、帰ってきたから。
お腹に子どもがいても、彼は離婚して、子どもを堕ろそうとしている。
この子は生まれてくるべきではなかった、と彼は言った。
桐生蒼士（きりゅう そうし）は煙草の箱から一本抜き取ると、口に咥えようとして、ふと動きを止め、箱に戻した。
引き出しから書類を取り出す。その修長の指が、ゆっくりと希へと差し出した。「目を通せ。異論がなければ、サインしろ」
希が受け取らないのを見て、蒼士は離婚協議書をテーブルの上に置いた。
「病院は予約しておいてやる。考えがまとまったらサインしろ。まだ仕事がある、会社に戻る」
蒼士は立ち上がった。
「待って、蒼士さん」希は声を詰まらせて、彼を呼び止めた。
蒼士は冷たく振り返る。
「なんだ」
希の瞳は涙で満ち、彼を懇願するように見上げた。「お金はいらない。離婚も、する。だから……お願い、子どもだけは……」
母親としての、これが最低限の、ちっぽけな願いだった。この子さえいれば、他には何もいらない。
蒼士の深い眼差しが、同じように彼女の顔に注がれる。自分に逆らう人間を嫌うことは知っていた。桐生蒼士に何かを命じられたら、それは絶対だ。この男がそういう人間だと分かっていても、希は問わずにはいられなかった。
「ダメだ」
男の返答は、断固としていて、有無を言わせぬ響きを持っていた。
そう言い放つと、彼は一瞬の躊躇もなく、歩み去っていった。がらんとした屋敷に、また希一人が取り残される。
桐生蒼士と結婚して三年。夫婦ではあっても、彼が自分を愛して娶ったわけではないことは、希にも分かっていた。
愛されてはいない。それでも、いつかはこの男の心を温められるのではないかと、そんな甘い希望を抱いていた。
良き妻であろうと、そればかりを考えてきた三年間だった。
毎日、使用人より早く起き、使用人より忙しく立ち働いた。彼が帰宅した時に、自分の手料理を食べて、完璧な我が家を目にしてほしかったからだ。
どんなに遅くなっても、必ず灯りを点けて彼の帰りを待ち、その姿を見て初めて、安心して眠りにつくことができた。
この冷たい鳥籠の中で、誰もが羨む豪邸での暮らしを送り、来る日も来る日も、夫の帰りを待つ石になり続けた。
でも、それでよかった。彼のそばにいられるだけでいいと、毎日自分に言い聞かせていた。
このまま、穏やかな日々がずっと続いていくのだと、そう、思っていた。
だが現実は、不意に頬を張られたような、強烈な平手打ちだった。
こらえきれなくなった涙が、堰を切ったように溢れ出す。希は息を吸い、胸元の服を掻きむしった。きつく噛み締めた唇の端から、嗚咽が漏れる。
今日この日になって、ようやく悟った。愛していない人間は、どうしたって愛せやしないのだ。
どれほどの時間が過ぎたのか。希はテーブルの上の「離婚協議書」を手に取った。そこに記された一つ一つの文字が、彼女の決意を固めさせる。
もう、終わりにしなくちゃ。
これからは、白石希として、ただ自分のために生きるのだ。
……
その日の桐生蒼士の帰宅は、いつもより少し早かった。
普段なら彼の帰宅と同時に出迎えるはずの、あの小さな女の姿が、今日は見えない。
胸に微かに灯った期待の光を、彼は無視した。
使用人が、彼のスーツの上着を受け取る。
蒼士は眉間にわずかに皺を寄せ、不満げに尋ねた。「奥様は？」
「旦那様、奥様は数時間前にお出かけになりました」
蒼士はリビングへと歩を進めた。冷たいガラスのテーブルの上に、サイン済みの離婚協議書と、手つかずの小切手が置かれている。
その光景に、蒼士の眼差しが昏く揺らぎ、胸の奥から苛立ちがこみ上げてきた。ネクタイを少し緩め、部屋に戻る。いつも通り整然とした部屋から、女の気配は、持ち物の一つに至るまで、跡形もなく消え失せていた。
……
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