どうやら安藤綾があの小林優子夫婦を叩き出した件が、屋敷内でくすぶっていた長谷家の親族たちの耳にまで届いたらしい。
そのせいか、その日の午後――
長谷家の大邸宅は嘘のように静まり返っていた。誰も動かず、何事も起きなかった。
夕食の時間。
綾が子どもを抱いて階下に降りてくると、使用人たちは一斉に目を丸くした。歩くだけで放たれるその気迫。以前のような弱々しさは微塵もなく、まるで軍人が隊を率いるかのような威圧感に、誰もが息をのんだまま、慎重に給仕を始めた。
「――家の五少爷は、いないの?」
その「五少爷」というのは、つまり長谷和真のことだ。
今では、長谷修彰と同じ母から生まれた唯一の弟。
だが、長谷家の家系は複雑だ。
和真は末っ子であり、亡くなった長兄を含め、上には修彰をはじめ、さらに兄が二人、姉が一人いる。
修彰は次男だが、すでに「少爷」ではなく、「当主」と呼ばれる存在になっていた。
使用人の手が一瞬止まり、驚いたように綾の方を見やった。
――夫人が和真の話題を口にするなんて。
以前の安藤綾は、和真を「陰気で気味の悪い人」と嫌っていた。
そのせいで、使用人の前でも何度か、「まるで幽霊みたいで気持ち悪い」と罵る声を聞いたことがある。
なのに今、彼女が自ら尋ねるなんて……?
使用人たちが戸惑って口を閉ざすと、綾はそれを“見下されている”と受け取ったらしく、低く、しかし鋭く言い放った。
「私が長谷修彰と離婚しない限り、私はこの家の奥様。あなたたちは立場を、よく理解しておくことね」
その声には、まるで雷鳴のような響きがあった。一瞬で空気が張り詰め、全員が慌てて頭を垂れ、息を潜めて「はい……!」と返事をした。
――たしかに、この短期間で人がここまで変わるなんて信じがたい。だが、今の長谷家の混乱を考えれば、強い夫人の方がまだマシだと誰もが思った。
「お答えします、夫人。五少爷は今朝からお部屋に籠もったままで……。お昼に食事を運びましたが、そのまま手つかずで戻されました」
綾は眉を寄せ、静かに立ち上がった。
そして、子どもを抱いたまま階段を上っていく。
その後ろ姿を見ていた使用人たちは、ようやく気づいた。
普段は綾を見るだけで怯えて隠れていたはずの彼が、
今はすっかり綾の胸の中で安らかに眠っている。まるで別人のように、すがりつくような仕草で。
(……まさか、この子まで「強い方につく」ことを覚えたの?)
長谷家の屋敷は四階建てだ。
修彰と綾の部屋は三階、
和真と昭陽の部屋は二階にある。四階は修彰専用の空間で、
綾はこれまで一度も立ち入ることを許されていなかった。
「長谷和真?」
綾は二階の一室――和真の部屋の前で立ち止まり、拳で一定のリズムを刻むようにノックした。その「コン、コン、コン」という音は妙に規則正しく、聞いていた使用人の一人が内心でつぶやいた。(……夫人、几帳面にもほどがあるわ)
音の強さも間隔も、寸分の狂いもない。
「長谷和真!」
何度か呼びかけても反応はなく、綾は少し声を張り上げ、ノックの勢いを強めた。
胸に抱いた昭陽も、その空気の変化を感じ取ったのか、不安げに顔を上げて部屋の中を覗こうとする。
使用人が慌てて「坊ちゃま……」と手を伸ばした瞬間、
昭陽は顔を背け、今にも泣き出しそうに口を尖らせた。
使用人はすぐに後ずさり、距離を取る。
昭陽は再び綾の首に小さな腕を回し、ぎゅっとしがみついた。
綾は片手で彼の背を支え、
低く、しかし確かな声で言った。「しっかり掴まってなさい」
その言葉に応えるように、
昭陽はさらに強く腕を締め、
小さな目をきゅっと閉じた。
――まるで「目まで言うことを聞いている」ように。
使用人がその様子に目を見張った次の瞬間――
ドンッ!!
綾は深く息を吸い込み、
勢いよくドレスの裾を翻しながら、容赦なく扉を蹴り飛ばした。