© WebNovel
A市、寒さの残る春先、あるホテルのプレジデンシャルスイートで、北川彰人(きたがわ あきと)は身を寄せてきた女の子を見ながら、わずかに眉をひそめていた
そばにいる少女は寒さを感じたのか、腕を伸ばして彼の腰に抱きつき、まるで温もりの欲しい子猫のように。彰人は起き上がって離れた。その瞳は湖のように静かで、深かった。
牧野遥香(まきの はるか)はぼんやりと目を開けた。昨晩はまるで長い夢を見ていたかのように、それも人には言えない夢を。気づけば、まったく見知らぬ場所にいた。
大きなベッド、大きな窓、さらには金ぴかの壁紙まで、すべてがここが自分の家ではないことを物語っていた。
彼女はハッと起き上がり、床に落ちた服を見た瞬間、遥香は戸惑った。頭の中に次々と記憶が浮かび、すぐに顔色は青ざめていった。彼女は何が起こったのか覚えたが、何もできなく、床での服を拾い、部屋を出るしかなかった。
光が牧杏遥を照らし、その眩しさに彼女は思わず手を伸ばして目を覆った。
「君は誰だ?どうしてここに?」背後から射す光に遮られ、その顔は影に隠れて見えない。ただ冷ややかな声が響いた。
「部屋を間違えて大変申し訳ございません。」
まだ床に落ちていた服をつかみ、遥香はバスルームに駆け込んだ。震える手で携帯電話を探した。その瞬間、彼女の頭に浮かんだのはまず警察に通報することだった!
何が起きたのか、彼女にはよく分かっていた。しかし今は身を守ることが最優先だった。あの男がどんな人間なのか、どうして自分がここにいるのか分かっていなかった。頭痛に加え、全身が踏みつけられたように痛かった。
震える手で携帯電話を掴み、番号を押そうとした……
「警察に通報しても無駄だ。この部屋はすべての電波を遮断している」先ほど、北川彰人は女の動きを見逃さず、バスルームのドアが閉まる瞬間、その意図を察して声をかけた。
ドサッという音が聞こえ、彰人は急いでドアを開けた。彼女は床に倒れていた。慌てて抱き上げ、ベッドに寝かせた。
彼は携帯電話を手に取り、救急番号を押したものの、少し躊躇してから切った。振り返ってベッドの上の彼女を見つめ、口元を歪めた。
「演技か?」
返事は何もなかった。
「まあ、そういうなら遠慮はしないぞ」彰人はそう言うと、布団に潜り込んだ。
遥香はは心の中で助けを叫び、彼を蹴ってドアを奪い去った。
彼女の足取りはふらつき、全身の力が抜けそうだった。ただ必死に道を確認し、できるだけ早く逃げることだけを考えた。それ以外は、考える暇もなかった。
部屋の中、彰人は険しい顔で、半開きのドアを睨みつけた。しばらくしてようやく気持ちを落ち着け、怒りを噛みしめながら服を着ようとしたが、振り返った瞬間、彼は固まった。真っ白なベッドシーツの上に、鮮やかな赤い血の跡がひとすじ。
彼は何かに気づき、一瞬ためらった後、ベッドシーツを引き剥がして床に投げ捨て、立ち去ろうとした。数歩歩いて考え直し、戻って電話を取った。「小春(こはる)、この部屋は掃除しなくていい」電話を切ってから、部屋を出た。
遥香はホテルから飛び出し、放心状態で街を歩っていた。薄暗い街灯の下、彼女の影は長く伸び、冷たい風に肩をすくめながら衣襟を引き寄せた。
一体、これはどういうことだ?同窓会じゃなかったのか?彼女は確かミントのお酒を数杯飲んだだけだったはずだ。
彼女は昨晩の出来事を注意深く思い返したが、特におかしな点はないようだった。では、どうしてあの部屋に行ってしまったのか?あのチャラ男は一体誰だ?
頭を抱えるほどの疑問が彼女を苦しめ、全身がだるくてもう歩けなくなった。彼女は一本の木にもたれて休むしかなかった。
後ろには車が、近すぎず遠すぎず、ついてきていた。運転していたのはまさに彰人で、彼は木の下にちょこんと座る小さな影に目を留め、苛立ちながらも、なぜか心の奥が痛む。
「おい、乗れ」窓を開けて冷たい声で言った。
遥香は顔を上げ、鋭く彼を睨みつけた。そして顔を背けて思った。乗れだと?冗談じゃない。昨夜のことは、幽霊に押さえつけられたような体験だったと思うことにしているのに、もしまた車に乗ったら、このチャラ男に何をされたらどうする?そう思うと、立ち上がって歩き続けた。
彰人は彼女の頑なな背中をじっと見つめ、思わず口元が歪んで笑みが漏れた。電話を取り、かけた。「小春、昨日の監視映像を全部出して、私に送れ。」
一方、電話の向こうの人は呆れたように頷き、監視室へと向かった。
「あの人だ!」遥香はようやく違和感に気づいた。昨日の同窓会で、中島健太(なかじま けんた)が彼女にミントのお酒を渡したとき、「確か一言言っていた。「最上階に送れ」と。
そう考えながら、遥香は苦笑して首を振った。もし本当にあいつの仕業なら、今の自分にはまだ復讐する力はない。冷たい風が吹き抜け、思わず震えが走る。疲れた……本当に疲れた。
遥香が倒れそうになった瞬間、彰人は素早く彼女を抱きとめ、車に乗せた。
慈恵病院のVIP病室で、医師である大塚翼(おおつか つばさ)は北川彰人を何度も見つめた。
「外で話そう」彰人が病室を出て行き、翼がその後に続く。二人は前後に並んでオフィスに向かった。
診断書を置くと、翼は再び彰人を見た。今度はゴシップ好きそうな表情が浮かんでいた。
「あの子とはどういう関係なんだ?」
「余計なことを言うな。彼女の状態はどうだ?」彰人は斜めに翼を睨みつけ、答えを待った。
翼は幼馴染の彼をよく知っていた。女に関心があるどころか、どうやら生まれつきすべての女性が苦手らしい。そんな彼が急に女を連れてきたのだから、疑わないわけがない。
「特に問題はない。ただ若い娘なので、すぎるから、あれこれやりすぎると体が耐えない。しかも元々体が少し弱い。北川若様、まあお前はそんなことをしてもいいけど、もう少し女を大事に扱うことを覚えたらどうだ?」
彰人は言葉が出ず、無言のままオフィスを出て病室へ戻った。
電話が鳴った。遥香はしばらく探していたが、最後には誰かがスマホを彼女の手に置いてくれていたことに気づいた。受話ボタンを押した。
「遥香、今日面接だぞ。ちゃんと頑張れよ。今回の会社はA市で一番の上場企業だからな。」
「うん、分かってるよ、明美。今から起きるわ」明美の声を聞いた遥香は、声を出して泣きそうになった。
隣で、彰人は彼女の目尻から流れ落ちる涙を見て、初めて罪悪感を覚えた。しかし、これは彼のせいではない。誰がやったか。彼女はあんな風に彼のベッドに横たわっていたのだ、しかも……。
遥香は気持ちを落ち着けると、冷静に隣に座る男を見つめ、冷たく言った。「病院までに連れてきてくれてありがとうございます。でも、私たちの間では何も起きなかったことにしましょう」そう言って、立ち上がり自分の荷物を手に取って去ろうとした。
「君、今体が弱い」彰人は一言した。
「安心して。死んでもあなたには関係ありませんから」そう言うと、遥香はドアを開けて出て行った。彰人は呆然とするしかなかった。
「社長、監視映像をお届けしました」
「うん」彰人は立ち上がって階下へ向かい、車を運転してオフィスへと急いだ。