雅臣は車から降りるつもりはなかった。薄い唇を開き、「出くわした。ついでに彼女を送っただけだ」と言った。
車窓から手を伸ばし、指先のタバコの灰を弾いた。灰白色の灰がぱらぱらと落ち、風に乗って智樹のズボンにまとわりついた。
棲雲里に戻るには確かにここを通る必要がある。智樹は胸をなでおろし、両手をポケットに入れ、気軽な様子を装って言った。「雅臣兄、美月を送ってくれてありがとう。俺たち、ちょっと誤解があってね。後でうまく解決したら、改めて結婚式に招待するよ。メインテーブルで座ってもらうからさ」
車内は薄暗く、男の整った顔立ちは影に隠れ、感情を読み取ることはできなかった。ただ淡々と「ああ」と返事をする声が聞こえただけだった。冷たく落ち着いた声で「帰るよ」と言った。
車窓がゆっくりと上がり、指先から落ちたタバコの吸い殻が地面に落ちた。それと同時に彼は目を伏せ、瞳の奥の冷たい光を隠した。
智樹はマイバッハが去っていくのを見送り、マンションに入ろうとしたが、警備員に止められた。住民の許可なしに見知らぬ人の立ち入りは一切禁止されていた。
美月に電話をかけるが、ずっと話し中だった。
冷たい風が吹き、智樹の頭が冴えて現実に気づいた。
自分は彼女にブロックされていたのだ。
***
フェニックスエンターテイメント、社長室。
「古川家があの話題を削除したし、後で双方合意の別れだという公式発表をすればこの件は終わりのはず。なぜ契約解除なんだ?」
拓海は感情的になり、拳で机を叩いた。「しかも6億円の賠償金だと?お前らは徹底的に追い詰めるつもりか?」
美月は彼が会社に連れてきた人物で、彼が担当する最初のタレントだった。だから彼女がこんな扱いを受けるのを見過ごせなかった。
柳田吾郎は革張りの椅子に寄りかかり、冷静ながらも諦めた表情で言った。「これは上層部の決定だ。俺に怒鳴っても無駄だよ。6億円を払わないなら、法的手段を取るだけだ」
「柳田さん…」
拓海がさらに言おうとしたが、美月に止められた。「拓海お兄さん、やめて」
彼は平静な顔をした美月を見下ろし、もどかしさからふいと顔をそむけた。
美月は朝早く拓海から電話を受け、ネット上の話題が削除されたこと、柳田から会社に戻るよう通知があったことを聞いた。座るやいなや契約解除の書類が目の前に投げ出された。
契約解除、そして会社への6億円の損害賠償金。
デビューして2年、彼女が演じてきたのはいつも端役の悪女役で、ギャラも低かった。その上、イベントに出席するための高級品を買って見栄を張らなければならなかった。6億円はおろか、6千万円も用意できない。
「6億はありません。法的手段も望みません」美月は赤い唇を軽く曲げ、冷静に尋ねた。「柳田さん、他に方法はないのですか?」
「これにサインすれば、6億円は免除する」
彼はもう一つの書類を彼女の方に押し出した。
美月が見ようとしたとき、拓海が先に奪い取り、目を丸くして読んだ。「国を出て、永遠に帰ってくるな?何だこの馬鹿げた契約は!」
美月の表情が一瞬凍りついた。長いまつげが震え、赤い唇を強く結んで言葉を発さなかった。
柳田は軽く笑った。「美月、お前は賢い子だ。説明する必要もないだろう」
拓海は契約書を持ったまま、困惑した目で二人を交互に見た。「どういう意味だ?俺の知らないことがあるのか?」
美月は固く握りしめていた拳をゆっくりと開き、なお冷静さを保った。「柳田さん、ありがとうございます。契約は結びません」
このような契約を結んでも法的効力はない。ただ自分に現実を突きつけるためのものだ。
柳田の目が暗くなった。彼が何か言う前に、彼女は立ち上がって言った。「柳田さん、無理は言いません。この2年間のお世話、ありがとうございました」
オフィスを出ると、美月は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
拓海は彼女の後に続き、困惑した顔で尋ねた。「一体何が起きてるんだ?理屈で言えば、この件は会社にそれほど影響ないはずだ。契約解除する必要もないし、法外な賠償金を請求する理由もない!古川家が裏で何かしてるんじゃないのか?」