章節 6: 谷川家のお嬢様
編輯: Inschain-JA
もし藤井彰が彼女の青春を輝かせた人だったとするなら、佐藤昭彦は彼女の歳月を優しく包みこんだ人だった。
彼は彰とはまるで正反対の人間だった。彰のように毎日彼女の髪を引っ張って「バカ」と呼んだり、木村健太のように冗談半分で言い合ったりすることもない。ただ彼は、彼女が悲しくて落ち込んでいるとき、そっと頭を撫でて、穏やかな声で慰めてくれた。
彼の存在はまるで一筋の光のようで。美咲が迷い、前に進む道を見失いかけたときでも、その柔らかな声を思い出すだけで、不思議と心が安らいだ。
三年前、斎藤沙耶がハリウッドでの活動を始めてからというもの、昭彦は国内外を頻繁に行き来していた。だからここ数年、美咲と昭彦が顔を合わせる機会は、ほんの数えるほどしかなかった。
沙耶は髪を指先で軽く払って、にっこりと微笑んだ。「その時は、必ず来てね」
「沙耶さん、もちろん行くわ。その時は昭彦さんとあなたに、大きなご祝儀を渡すから」
「ふふっ、楽しみにしてるわ」
会話が終わるより早く、一人の清楚な顔立ちの女性が小走りで近づき、沙耶の耳元で何かを囁いた。
沙耶は軽く頷き、それから美咲に向き直って言った。「美咲さん、先に中へ入るわね。またゆっくり話しましょう」
「ええ」
沙耶が去るのを見届けてから、藤田秋穂が興奮を隠せず声を上げた。「美咲さん、斎藤沙耶と知り合いだったなんて！」
さっきの二人の会話を聞いて、秋穂は目を丸くしていた。あの国民的女優が結婚するなんて――しかも相手が佐藤昭彦だなんて！
佐藤家は藤井家に次いで、京市でも屈指の名門。その話題性はあまりにも大きかった。
美咲には秋穂の興奮が痛いほど伝わった。
というのも、秋穂はずっと彼女の腕を握りしめていて、指の力がまるで骨を砕きそうなほどだったのだ。
「秋穂さん、落ち着いて。まずは離して……痛いの」
秋穂がようやく手を放すと、美咲は赤くなった腕をさすりながら、小さく息を吐いた。（この子、本当に握力強いわね……）
顔を上げると、山口瑞希と目が合った。その意味ありげな視線に、美咲の心臓がひとつ跳ねた。――気づかれた。
彼女は自分の素性を、誰にも話していなかった。マネージャーの瑞希にさえ、一度も打ち明けたことはない。しかも谷川家が意図的に彼女の経歴を隠していたせいで、彼女があの谷川家の令嬢だと知る者は、ほとんどいなかった。
けれど、今の沙耶とのやり取りで、それが崩れかけていた。京市の有力家系の中で「谷川」といえば、ひとつしかない。少し考えれば、誰でも結びつけてしまうだろう。
美咲は気まずそうに咳払いをして言った。「瑞希さん、わざと隠してたわけじゃないの」
本当に隠すつもりはなかった。ただ――谷川家の娘という肩書は、あまりにも目立ちすぎる。それに、美咲はその身分に頼らず、自分の力でこの業界に立ちたかった。
瑞希はため息まじりに肩をすくめた。「美咲さん……私が知らない秘密、あとどれくらいあるのかしら」
美咲と契約した初日から、瑞希はなんとなく感じていた。彼女の言葉遣い、仕草、服装――どれも普通の家庭に育った子ではなかった。
彼女は今でも覚えている。映画学院の校門の前で初めて美咲を見た日のことを。あのときの美咲は、ベージュの半袖ワンピースを着ていた。襟元とスカートの裾からのぞく白い肌が眩しく、通りかかる人が思わず何度も振り返るほどだった。
瑞希はその瞬間、直感した――「この子は絶対に化ける」。その美貌も、気品も、他とは比べものにならなかった。だから彼女は、ためらわず名刺を差し出した。
だが現実は厳しかった。美咲はウェブドラマで華やかにデビューし、しばらくネットで話題にはなったものの、熱はすぐ冷めた。その後の仕事にも恵まれず、デビューから5年経った今でも、まだ中堅どころに留まっている。
しかも美咲は、争いを嫌う穏やかな性格だった。瑞希は何度も頭を抱えてきた。
美咲は無理に笑みを作ったが、それ以上何も言わなかった。（私と彰の結婚を知ったら……どんな顔をするだろう）
――いや、驚くのは“結婚した”という事実より、“相手が誰か”のほうかもしれない。
打ち明けるべきだろうか？彼女はマネージャーだし、知っておく権利はある。
でも頭に浮かんだのは、彰の冷たい横顔だった。
彼は言っていた――「誰にも言うな」と。だったら、知られないほうがいい。
そのとき、オーディション室の扉が開き、沙耶が出てきた。秋穂がすぐに言った。「美咲さん、今回はすごく競争が激しそうだね！」
――それもそのはず。あれは三冠女優だ。
この映画が本当に価値ある作品だからこそ、沙耶もわざわざ自ら足を運んだのだろう。
美咲と沙耶は軽く会釈を交わし、すれ違った。秋穂の嘆くような声を聞いて、美咲の胸にも不安がよぎった。（私なんかに、この役が取れるんだろうか……）
十分ほどして、ようやく美咲の番が来た。
「美咲さん、頑張って！」秋穂が両拳を握ってエールを送った。
美咲は笑顔で頷いた。
オーディションは、思っていたよりも落ち着いていた。むしろ驚くほどスムーズで、緊張する暇もなかった。審査員たちの表情から何かを読み取ろうとしたが、掴めるものはなかった。――良かったのか、悪かったのか、自分でもわからない。
実際、沙耶が姿を現した瞬間から、美咲はもう結果に執着していなかった。もし自分が監督なら、あの実力者を選ぶに決まっている。
それに芸能界とは、顔や演技だけでどうにかなる世界ではない。後ろ盾となる資本があるか、圧倒的な人気があるか――どちらもなければ、浮かび上がることは難しい。
美咲も、これまで何度も同じ経験をしてきた。チャンスのように見えても、結果はいつも「不採用」。だから、今ではもう心が波立たない。
期待しなければ、失望もしない。
そんな心境で、結果を待つ数日間も穏やかに過ぎていった。
三日後、沙耶は佐藤昭彦の会社を訪れた。
二人の関係は社内でも知られていたが、それでも彼女の登場は社内をざわつかせた。なにしろ三冠女優なのだ。
沙耶がエントランスに姿を現した瞬間、社員たちは次々に挨拶をし、彼女はそのすべてに柔らかな笑みで応えた。それだけで、場の空気が一気に華やぐ。
社長室の前にたどり着くと、彼女がドアに手を伸ばす前に、秘書がすでに扉を開けていた。
沙耶は軽く「ありがとう」と言い、ヒールの音を響かせて中に入った。
「昭彦さん？」
彼女を見るなり、佐藤昭彦は穏やかに微笑んだ。外の目など一切気にせず、彼女を自分の椅子に座らせる。
秘書は無言でドアを閉め、外の視線を完全に遮断した。
「沙耶さん、どうしたの？」昭彦は手元の資料を置き、優しい目で彼女を見た。
「『霧』の主演女優が変わったって聞いたの」沙耶の声には、非難も怒りもなかった。まるで、ただ事実を確認するだけのように静かだった。
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