第6話:裏切りの祝宴
パーティー会場に足を踏み入れた瞬間、葵の耳に飛び込んできたのは華やかな笑い声と、そして――
「依恋ちゃん、おめでとう!」
「お腹の子は男の子?女の子?」
祝福の声だった。
葵の手を引く零司の足取りが、わずかに緊張しているのがわかる。蒼は既に会場の奥へ駆けていき、明るい声で叫んだ。
「ママ!」
その瞬間、葵の心臓が凍りついた。
蒼が「ママ」と呼んだのは、依恋に対してだった。
「蒼ちゃん、来てくれたのね」
依恋の甘い声が響く。そして、零司が葵の手を離し、依恋の元へ歩いていく足音。
「体調はどうだ?」
「大丈夫よ。赤ちゃんも元気」
零司が依恋のお腹に手を置く音。そして、そっとキスをする音まで聞こえてきた。
葵は立ち尽くした。会場の隅、スピーカーの近くに置かれた椅子に座らされ、まるで置物のように扱われている。
「葵さんも来てくださったのね」
零司の母親の声だった。だがその口調には、心からの歓迎など微塵もない。
「ええ、お義母様」
葵は微笑んだ。完璧な、何も知らない嫁の笑顔で。
その時、スピーカーから音楽が流れ始めた。葵のすぐ隣にあるスピーカーのせいで、会場の向こうの会話まで鮮明に聞こえてくる。
「零司、本当におめでとう」
友人の一人が声をかけた。
「ありがとう。やっと、本当の家族ができるよ」
零司の返答に、葵の胸が締め付けられた。
本当の家族。
では、葵と蒼は何だったのか。
「静かにしろよ。葵に聞かれたらどうする」
零司が友人たちを制する声が聞こえた。だがその直後――
「何をそんなに恐れてるの?」
零司の母親の声だった。
「聞かれたって関係ないでしょ。あの女は目が見えないんだから、あんたなしでどこに行けるっていうのよ。依恋のお腹にはうちの孫がいるんだから」
葵の爪が、掌に食い込んだ。
かつて、彼女が零司を助けて怪我をしたとき、一週間寝ずに看病してくれた零司の母親。その人が今、こんな言葉を口にしている。
「俺たちみたいな身分なら、女が何人いるのは当たり前だろ」
友人の一人が笑いながら言った。
「そうそう。葵さんは正妻として大事にしてもらえばいいじゃないか」
葵は静かに座り続けた。表情を変えることなく、ただ聞いている。
もうすぐだ。
あと少しで、ここから抜け出せる。
心の奥で、冷たい決意が固まっていく。
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「あら、葵さん」
甘い声が近づいてきた。依恋だった。
「一人でつまらなそうね」
依恋は葵の隣に座り、わざとらしく溜息をついた。
「零司さんと付き合って、もう二年になるの。知ってた?」
葵は何も答えなかった。
「別荘で一緒に住んでるのよ。毎晩、愛し合って」
依恋の声に、勝ち誇ったような響きがある。
「お腹の子は女の子。零司さん、とても喜んでくれてるの」
葵はただ、静かに依恋を見つめた。その平静さに、依恋の声が微かに震え始める。
「潔く朽木奥様の座を譲りなさい。そうすれば……のんびり飼われていられるようにしてあげる」
最後通牒だった。
だが葵は、一言も発しなかった。ただ静かに、依恋の目を見つめ続ける。
その時、零司が慌てて駆け寄ってきた。
「依恋、何を話してるんだ?」
「あら、零司さん」
葵が穏やかな笑みを浮かべた。
「依恋さんが、旦那様がとても優しいって自慢してただけよ」
零司の表情が、安堵に変わった。
「そうか。ありがとう、依恋」
依恋は困惑した表情で葵を見つめた。なぜ、この女は自分の挑発を零司に告げ口しないのか。
葵は心の中で嘲笑を浮かべた。
愚かな女。
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帰宅後、零司はシャワーを浴びに行った。
葵は寝室で、そっとスマートフォンを取り出した。依恋からの嫌がらせのボイスメッセージが何件も届いているが、無視する。
そして、美緒からのメッセージを開いた。
【全部準備完了。兄が予定どおり迎えに行く】
葵の心臓が激しく跳ねた。
ついに、その時が来たのだ。
「葵?」
零司の声が浴室から聞こえた。葵は慌ててスマートフォンの画面を消し、本棚に手を伸ばした。
「本を探してたの」
零司がバスローブ姿で現れ、葵を後ろから抱きしめた。
その瞬間、葵の全身に強い嫌悪感が走った。
「疲れたの。体を休ませて」
葵は冷たく零司を突き放した。
零司は困惑した表情を浮かべたが、やがてベッドに横になった。
深夜。
零司がベッドを抜け出す気配がした。階段を降りる足音。そして、階下の部屋から――
「零司……」
依恋の甘い声と、物音が聞こえてきた。
葵は目を開けた。
明日。
明日、すべてが終わる。