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章節 6: 第6話:うちの子は天才

「リリアーナ、いい子にしていたかい?」

 相変わらず爽やかイケオジのウィンチェスタ侯爵がこの別邸に来ると、普段ほとんど姿を見る事がない侍女達の嬉しそうな姿が見えた。

「ごきげんよう。ウィンチェスタ侯爵様」

 リリアーナは最近覚えたばかりの貴族のご挨拶を披露する。

 スカートを少し摘んで、でも姿勢は崩さず、顔は笑顔で。

 貴族ってツライ!

「ふむ。かわいいけれど少し寂しいな。父とは呼んでくれないのかい?」

 ウィンチェスタ侯爵が優しい笑顔をすれば、遠くで侍女の色めき立つ声が聞こえる。

 聞こえているはずなのに、全くそちらを振り向く気配がない。

 さすがイケオジ。

 貴族のマダムにもモテるのだろうな。

「勉強は順調かい?」

 軽々と抱っこしたまま階段を登り、リリアーナの部屋へ入る。

 ベッドと小さなテーブルしかないその部屋は、相変わらず殺風景だった。

 テーブルの上のノートを手に取り、ウィンチェスタ侯爵はパラパラと捲る。

「文字の練習だね。上手に書けているよ」

 リリアーナの名前と、基本的なアルファベット、精霊の記号。

 ノートには目一杯いろいろなものが書かれていた。

「……これは何かな?」

 ウィンチェスタ侯爵は意味がありそうな見知らぬ記号を指さした。

「えっと、読み方? 発音? 自分がわかるように……」

 ウィンチェスタ侯爵がわからない文字は日本語だ。

 『μ』の横に思いっきり『ミュー』と書いてある。

 違うページには同じ記号の『μ』の上に『みゅ〜』と、下手な猫の絵。

 自分のノートだと思って、自由に書きすぎた。

 かなり恥ずかしい。

「発音? 不思議な記号だね」

 下手な猫の絵はスルーだった。

 ノートに落書きは、この世界でもあるあるなのかもしれない。

「これを書くと答えが簡単に出るのかな?」

 ウィンチェスタ侯爵の手元は、法則を探そうとする様に見えた。

 あぁ、筆算。

 前世の数字で書いているので、変な落書きに見えるのだろう。

「楽しいノートだね」

 ウィンチェスタ侯爵はパラパラとページを戻り、あるページで止めた。

 先ほどの下手な猫のページだ。

 トントンと指差して笑う。

「えぇぇ! 今、そこに戻るの?」

「ははっ、ごめん、ごめん」

 ノートをテーブルに戻しながら、ウィンチェスタ侯爵は優しくリリアーナの頭をなでた。

「次は魔術を見せてもらおうかな」

 再びリリアーナを抱き上げ、庭へ。

 普段そこにいない侍女が当たり前のように玄関の扉を開ける。

 恐るべし、貴族の自動ドア。

 あ、人動ドアかな?

「何か見せて」

 ウィンチェスタ侯爵はノアールのようにリリアーナの後ろに立った。

 初心者は魔術を放った瞬間、後ろに倒れることが多いからだ。

「ノアールから聞いているよ。いつも通りでいいから」

 実際にはノアールから普段の様子は聞いてはいない。

 すぐに始めずに迷っているリリアーナを見たウィンチェスタ侯爵は『ノアール』『いつも通り』のキーワードがあれば安心するだろうと、適当にカマをかけただけだ。

「えっと、氷を出します」

 リリアーナはゆっくりと小さな腕を身体の前に差し出した。

 イメージするのは製氷器で作ったような氷。

 四角くて、透明な氷を5個。

 リリアーナは目を閉じて頭の中でイメージする。

「あれ? 3個?」

「下に落ちてしまったね」

 手が小さくて5個も乗らなかった。

 そういえばイメージしたのは22歳の手だった。

「どう……ですか?」

 振り返り、手に残った3個の氷をウィンチェスタ侯爵へ差し出す。

 氷はあっという間にウィンチェスタ侯爵の大きな手の上で溶けてしまった。

「他にもできるかい?」

 ウィンチェスタ侯爵は緑の眼を細めながら優しく微笑む。

 リリアーナは少し考えると身体の向きを戻し、今度は右腕だけ伸ばした。

 手のひらを数メートル離れた的に向ける。

 その的は兄エドワードのために立てられた的。

 木の棒の上に丸い的がついている弓道の的のようなものだ。

 イメージするのは水でできた矢。

 水の丸い球を細長くし、弓道の矢のように羽をつけて。

 実物を近くで見たこともないが、テレビで見た弓道の矢を自分なりにイメージする。

 手のひらがジュワっと熱くなり、的に向かって飛び出した。

 水の矢は土の上に落ち、パシャと水が飛ぶ。

 いつも通りだが水の矢は的まで全然届かなかった。

 がっかりしたかな?

 リリアーナは目を伏せ、キュッと口を噤んだ。

「すごいな」

「えっ? で、でも的まで全然」

「天才だよ、リリアーナ」

 ウィンチェスタ侯爵はしゃがんでリリアーナをぎゅっと抱きしめる。

「ふふふっ。くすぐったいっ」

 褒められてる?

 的まで届かなかったのに?

 氷もすぐに溶けてしまったのに?

「娘はいいね。可愛いよ」

 ウィンチェスタ侯爵はそのまま軽々とリリアーナを持ちあげた。

 細そうに見えるのに、余裕そうだ。

 父とはそういうものなのだろうか。

 前世も今も父に縁がないので不思議な感じがする。

 ウィンチェスタ侯爵はテラスに置かれた丸いテーブルと椅子の前まで移動し、リリアーナを抱っこしたまま座った。

 まさかの膝の上だ。

 5歳だからアリ?

 いや、中身的にはナシでしょう。

 冷や汗が出そう。

 ガチガチに固まっているリリアーナのもとに、侍女のミナが紅茶を運んでくれた。

 彼女は火を初めて出した時に目覚めるまで付いていてくれた侍女。

 あれ以来、彼女だけは自分と話してくれるようになった。

 テラスは風通しがよく、ウィンチェスタ侯爵の柔らかい緑髪がサラッと揺れる。

 別邸の寂れた庭にいてもイケオジは素敵だ。

 ウィンチェスタ家は『風の一族』なのだとノアールが教えてくれた。

 風の一族は緑髪・緑眼が多いそうだ。

「おとうさまは精霊を見た事がありますか?」

「残念ながら会った事はないね。どうしてだい?」

「お兄様は水の精霊にお願いして水が出るのに、私はお願いしても出なくて。みんなには精霊が見えていて力を貸してくれているのかなって」

 詠唱しても魔術が使えないのは精霊が見えないからだと思ったが違うみたいだ。

「詠唱はね、ただのきっかけだよ」

 ウィンチェスタ侯爵が優雅に紅茶を飲むと、風に乗った紅茶の香りがふわっと広がる。

「昔、精霊に選ばれた『創世の女神』がこの世界を豊かな世界に作り替えたのだよ」

「創世の女神?」

 1万年程前、創世の女神が食料もなく作物も育たなくなってしまったこの世界を一瞬で蘇らせた。

 竜族とドラゴンが住む荒地のノース大陸。

 ドワーフが住む緑の多いサウス大陸。

 獣人のウエスト大陸。

 人族のイースト大陸。

 そしてエルフが住む世界の裏側。

「女神は世界樹の種を芽吹かせ、世界樹の上にこの世界を作ったそうだよ」

「ここは樹の上なの?」

「誰も見た者はいないけれどね」

 精霊もね、とウィンチェスタ侯爵は肩をすくめた。

「昔、魔術は魔法陣を石や土に刻み、魔力を注いで発動するものだったんだ」

 月日が経ち、詠唱で魔法陣を呼び出すようになり魔法陣はどんどん記録から消されていった。

 今でも魔法陣を愛する研究者の中には詠唱をせず魔法陣だけで頑張る人もいる。

「詠唱よりも発動することが大事だから気にしなくて良いのではないかな?」

「……変じゃない?」

 リリアーナの小さな声に、ウィンチェスタ侯爵は微笑んだ。

 随分と気にしていたようだ。

 無詠唱の方がすごいというのに。

 変ではないが特別すぎる。

 そして自分の価値を全くわかっていない。

 フォード侯爵はどこまでリリアーナの事を把握しているのだろうか。

 ウィンチェスタ侯爵はリリアーナの頭を優しく撫でた。

「昔の魔法陣の方がすごいのかな」

「すごい?」

「うん。複雑そう」

 前世だってピラミッドやモアイ像など、なんでこの時代にこんなものがと思うものはいくつもあった。

 魔法陣も忘れ去られた凄い物がありそうだ。

「ねぇ、おとうさま。なんで空は白いの?」

「白いセカイの中に世界樹があるからだよ」

 この世界の空は白い。

 そういえば、鈴原莉奈からリリアーナになる時、真っ白なセカイに川や草原が作られる光景を見た。

 でも世界樹と呼ばれそうな大きな木なんてなかった気がする。

『この世界を一瞬で蘇らせた』

 もしかしてあの真っ白な少女が女神様だったのだろうか?

「どうやって夜になるの?」

 この世界には太陽も月もない。

 真っ白な空は時間になるといきなり真っ暗。

 夕方のオレンジの空が好きだったが、この世界では見られない。

 季節もなく、ずっと同じ気候だ。

「女神がカーテンを降ろしていると言われているよ」

 誰も見た事はないけれどねとウィンチェスタ侯爵は付け加えた。

「カーテン?」

 魔術で夜になっているのかと思ったら、女神がやっているらしい。

 この世界の仕組みがよくわからない。

「……むずかしいね」

 リリアーナは皿に並べられたクッキーへ手を伸ばした。

「おいしい!」

 バター多めの贅沢クッキー!

「ウィンチェスタ家の料理人が作ったクッキーだよ。お嫁に来たらいつでも食べられるからね」

「お、お嫁、」

 真っ赤な顔でワタワタするリリアーナを笑いながら、ウィンチェスタ侯爵は優雅に紅茶を飲む。

「早くうちの娘にならないかな」

 18歳まで結婚できないのであと13年もあるけれど。

 それは何気なく呟いた言葉だった。

 あとから振り返れば、そんな予感があったのかもしれない。

 この僅か2年半後、神託であんなことが起きるとはウィンチェスタ侯爵にも予想することは出来なかった。


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