章節 5: 上流家庭の教養
編輯: Pactera-novel
馬鹿だとは思っていた。だが、ここまでとは。玲奈は呆れを通り越して、哀れみすら覚えた。
「自分の部屋は彼らよりマシなんでしょう？ そんなに礼儀作法にうるさいなら、あなたが交換してあげればいいじゃない」
「お、俺は……」井上は言葉に詰まり、視線を泳がせた。痛いところを突かれた顔だ。「俺の部屋よりお前の部屋の方がいいだろ！ SOhだってあるし！ それに、自分が坂本家の令嬢だって売り込んでるのはお前だろ、俺じゃねーし！」
『ｗｗｗｗｗ もうやめてあげて！ 昭彦くんのライフはゼロよ！』
『結局ゲーム機が羨ましいだけかよｗｗｗ 小学生か。でも井上の言うことも一理ある。坂本夫妻があんな部屋に泊まるなんて無理でしょ。逆に玲奈の養親なら、使用人部屋の方が落ち着くんじゃない？ 交換してあげるのが優しさだよ』
『阿部夫婦はがどうして交換するわけ？彼らこんな部屋に住んだことないでしょ。得するなら即座に取るに決まってる』
『は？ 何言ってんのこのコメント欄。貧乏人はボロ部屋がお似合いってか？ 選民思想キッショ』
その時、坂本昭文が動いた。彼は玲奈を無視し、直接、阿部夫婦へと向き直ったのだ。その視線は、路傍の石を見るように冷淡で、傲慢だった。「二百万出そう。部屋を代われ。それだけあれば十分だろう？」
阿部夫婦は立ちすくんだ。札束で頬を叩くような物言いに圧倒され、おどおどと玲奈を見る。
「玲奈……その……」母が迷うように口を開いた。
彼らは、玲奈が坂本家で冷遇されていることを知っている。
金が欲しいわけではない。ただ、富豪である坂本家を敵に回すのが怖かったのだ。自分たちが我慢すれば済む話なら、その方がいい。これ以上玲奈の立場を悪くしたくなかった。
だが、母の言葉を遮るように、玲奈が一歩前に出た。
原作の記憶が蘇る。かつての「坂本玲奈」もまた、最高の部屋を引き当てた。そして、家族の機嫌を取るために、自ら進んで部屋を譲ったのだ。
その結果どうなったか。彼女は独り寂しく使用人部屋で眠り、ネットでは「媚びへつらっている」「金魚のフン」と嘲笑された。対する坂本家は、娘の犠牲を当たり前のように受け入れ、愛莉と共に快適な夜を過ごしたのだ。
同じ轍は踏まない。絶対に。玲奈は唇の端を吊り上げ、冷ややかに笑った。「坂本会長。世の中には、お金で買えないものがあるってご存じない？」
昭文が眉をひそめる。「何の話だ」
「ここよ」玲奈は自身のこめかみをトン、と人差し指で叩き、傍らの愛莉へと視線を流した。「知性」
「……ッ！」昭文が絶句し、愛莉の顔が引きつる。
『ブッｗｗｗｗｗ 言った！ 言いおった！ 遠回しに「お前ら馬鹿だろ」って言ってるｗｗｗ』
『玲奈、性格悪すぎだろ。いつも坂本グループを口にしてたのは誰？親が下手に出て頼んでるのに、その態度は何？』
『つまり玲奈は便乗できないと分かったから、すぐに態度を変えたってこと？なんて人なんだ、坂本家は彼女に無駄に長い間利用されてきたのに、本当に縁起が悪い！』
『笑った、坂本パパが彼らと交換しようとしたのは彼女に面目を立てているのに、自分が何者かも分からないんだね……こんな良い部屋に住むなんて無駄だよ』
コメント欄では、玲奈のアンチがそのやり方を非難していた。
かなりの一般視聴者も見かねて、怒りを露わにした。
『玲奈を批判してる人たち病気？物は自分で選んでおいて、気に入らないからって道徳的に他人に部屋交換を強いるの？愛莉のこと結構好きだったのに、彼女のパパは本当に最低だわ』
『だからさ、なんで玲奈が譲る前提なの？ 会長が偉そうに命令するからこじれてるだけでしょ。二百万とか馬鹿にしてる』
『階級の固定化を肯定する奴らは革命の敵だ！』
『コメント欄がカオスｗｗｗ でも俺、ちょっと玲奈のファンになってきたかも。ここまで清々しいと逆に好きだわ』
その時、鼻で笑うような音が響いた。「育ちが知れるわね。下品なこと」声の主は、岡本夫人、凛太郎の母だ。
岡本家と坂本家は懇意にしており、彼女も玲奈のことは知っていた。血の繋がりこそあれど、所詮は市井で育った娘。粗野で、卑しく、見るに堪えない。
それに比べて、幼い頃から手塩にかけて育てられた愛莉はどうだ。優雅で、慎み深く、まさに理想の嫁。
取り違えられてよかったとすら思う。そうでなければ、この礼儀知らずな娘が岡本家の敷居を跨いでいたかもしれないのだから。
岡本夫人の瞳には、隠そうともしない侮蔑の色が浮かんでいた。
玲奈は平然と視線を返した。「ええ、下品で結構よ。人の部屋を強奪するのが『上流階級の教養』だと言うなら、一生理解できなくていいわ」
「なっ、あなた……！」
「まぁまぁ、おば様」愛莉がすかさず割って入った。彼女は岡本夫人の腕に絡みつき、甘えるような声で宥める。「玲奈ちゃんも、言い争わないで。もう時間も遅いですし、皆さんは少し休んでください。夕食は私とママで作りますから」
夫人の表情が瞬時に和らいだ。彼女は愛莉の頭を愛おしげに撫でる。「そうね。やっぱり愛莉ちゃんは気が利くわ。誰かさんと違って」
愛莉は花が咲いたように微笑み、玲奈を振り返った。「玲奈ちゃんも、後でおじさまたちと食べに来てね。みんなで作った方が美味しいもの」
玲奈は鼻を鳴らし、返事もしなかった。茶番だ。
『ううっ、やっぱり愛莉ちゃんは天使……！ 場の空気を読んで全員を立てる、これぞ神対応』
『そうだよ。愛莉ちゃんがあえて誰も選びたくないエプロンを選ばなかったら、家政婦部屋に住むことにもならなかったのに。坂本パパは間違ってないよ、ただ娘を心配しただけ』
『いや、愛莉がエプロン選んだせいで使用人部屋になったんじゃん？ 自業自得だろ』
『やべ、正論すぎて心配』
『↑アンチ乙。もしあなたのお姉さんがそんなに早く物を取らなかったら、あの家政婦部屋は誰のものになるか分からないでしょ。偽物のくせに態度だけは大きい/微笑』
『お前ら喧嘩すんなよ。美女が見えねーだろ。玲奈、いつ水着になる？』
村上美咲や小林昭夫たちは、呆気に取られてその光景を眺めていた。
相手は天下の坂本グループ会長と、岡本グループの社長夫人だ。
玲奈はそれを一歩も引かずに論破するとは。
勇敢だ！
美咲の瞳にはある種の尊敬が、井上の目には警戒の色が宿った。
嵐のような一行が去り、二階にようやく静寂が戻る。
阿部夫婦はまだオロオロとしていた、玲奈にトラブルが降りかからないか心配していた。
玲奈は「気にせず休んで」とだけ告げ、書斎へと籠もった。
*
一階のキッチンでは、愛莉と坂本夫人が夕食の準備に追われていた。
岡本凛太郎も甲斐甲斐しく手伝っている。
メニューは洋食だ。ステーキにパスタ、サラダ、そして手作りのクッキーとパン。
『はー、目の保養。画面越しにいい匂いがしてきそう。愛莉すごいわ！』
『これぞ理想のエリリン夫婦！ 愛莉ちゃんと凛太郎くん、もう結婚しちゃえよ』
『働かざる者食うべからず。誰かさんは書斎で昼寝ですかー？』
『上の人、玲奈大好きなんだね。彼女のこと言ってないのに毎回彼女のこと出すなんて、うぅ』
『……』
やがて、夕食の時間になった。各家族がダイニングルームに集まってきた。
阿部夫婦は一眠りして、元気いっぱいだった。
井上は並べられた料理を見て、大げさに歓声を上げた。
「すげぇ！ これ全部、愛莉先輩と坂本のおば様が作ったんですか？ プロみたいだ！」
「ふふ、そんなことないわ」愛莉が謙遜して微笑む。「口に合うか分からないけど……もう食べていいわよ」
「お疲れ様でした！」
言い終わると、階段を降りてきた玲奈を見て、井上がまたもや口を歪めた。「へぇ、降りてきたんだ。手伝いもしない、部屋の交換もしない。それなのに飯だけは食うつもりか？ よく恥ずかしくねーな」
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