第4話:崩壊と再生
[刹那の視点]
夜の十時。
体が燃えるように熱い。額に手を当てると、指先が震えるほどの高熱だった。
四時間も雨に打たれて歩いたせいだろう。喉が焼けるように痛く、視界がぼやけている。
「お湯を……」
ふらつく足取りでキッチンに向かい、電気ポットに手を伸ばした。でも、指に力が入らない。
ガシャン。
ポットが床に落ち、蓋が外れて熱湯が飛び散った。
「あっ——」
熱湯が右足にかかる。激痛が走り、私は浴室に駆け込んだ。冷水を足にかけながら、意識が遠のいていく。
こんなところで死ぬんだな。
そう思った瞬間、視界が真っ暗になった。
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病院の廊下で、救急隊員が医師に状況を説明していた。
「マンションの住人が発見しました。浴室で倒れていて、高熱と脱水症状です」
「家族は?」
「連絡がつかないそうです」
医師は眉をひそめた。正月の夜に、一人で倒れている主婦。何か事情がありそうだった。
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[刹那の視点]
目を開けると、白い天井が見えた。
病院のベッドの上にいる。点滴の針が腕に刺さっていて、体はまだだるかった。
「気がついたか」
険しい顔をした冬弥が、ベッドの脇に立っていた。
「冬弥……」
「お前、頭がおかしいのか?」
冬弥の声が、病室に響く。
「こんな極端な手で俺の気を引こうとしたのか?」
私は冬弥を見上げた。彼の目には、心配ではなく苛立ちしかない。
「違う」
「違う?じゃあ何だ?」
冬弥が私の襟首を掴んだ。
「墓地から四時間歩いて帰ったの。あなたが私を置き去りにしたから」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない。雨の中を——」
「俺の気を引くために、わざと病気になったんだろう?」
冬弥の手に力が込められる。息が苦しい。
「あなたの気なんて、これ以上向けられたくない」
私の言葉に、冬弥の手が止まった。
「何だって?」
「もう、うんざりなの」
病室のドアが開いて、怜士が入ってきた。
「ママ、大丈夫?」
一瞬、息子が心配してくれているのかと思った。でも、怜士の次の言葉で、その期待は砕け散る。
「クソババア、マジで気持ち悪い」
怜士が私を見下ろしながら、吐き捨てるように言った。
「病気になって同情引こうとしてるの?最低」
私は何も言えなかった。
「怜士、そんな言い方は——」
「うるさい!」
怜士が私を睨みつける。
「パパと美夜さんの邪魔しないでよ!」
その時、病室のドアがまた開いた。
美夜が現れる。
「あら、大変だったのね」
わざとらしい心配の声。でも、その目は笑っていない。
「私も具合が悪くて……」
美夜が額に手を当て、ふらつくような仕草を見せた。
「美夜!」
冬弥が慌てて美夜を支える。
「大丈夫か?」
「ちょっと、めまいが……」
美夜が冬弥にもたれかかる。完璧な演技だった。
「すぐに診てもらおう」
冬弥が美夜を抱き上げた。まるで、お姫様を抱くように。
私には一度も向けたことのない、優しい表情で。
「無駄な足掻きはやめろ、見苦しい」
冬弥が振り返り、私に言い放った。
「美夜の方が、よっぽど心配だ」
三人が病室を出て行く。
私は一人、ベッドの上に取り残された。
しばらくして、看護師が入ってきた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「さっきの女性、仮病でしたね」
看護師が小声で言った。
「体温も血圧も正常でした。でも、あなたは本当に危険な状態だった」
看護師の言葉が、胸に刺さる。
「一週間は入院が必要です」
一週間。
その間、誰も見舞いに来ることはなかった。
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一週間後の退院日。
誰も迎えに来ない。
私は一人で病院を出た。
外は快晴だった。青い空に白い雲が浮かび、そよ風が頬を撫でていく。
心の重荷を下ろした人間って、こんなにも自由になれるのか。
歩きながら、そう思った。
もう、冬弥に期待することはない。怜士に愛情を求めることもない。
私は、私だけの人生を歩もう。
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[刹那の視点]
家に戻ると、床にはあの時のポットが転がったままだった。
冬弥は一度も帰宅していない。
でも、もう何も感じなかった。
私はクローゼットを開け、服を整理し始めた。未使用のブラウスやスカート、昔買ったぬいぐるみ。全部、階下の住人に譲ることにした。
救急車を呼んでくれた恩人だから。
クローゼットが空になった時、奥の隠し場所に手を伸ばした。
そこにあったのは、一冊のノート。
ジュエリーデザイナーだった頃に描いた、デザイン画がびっしりと詰まっている。
ページをめくると、色とりどりのスケッチが現れた。指輪、ネックレス、ブローチ。全部、私が夢見た作品たち。
これだけ持って行こう。
私の夢だけを。
荷造りを終えた時、玄関の外から声が聞こえた。
「刹那?」
冬弥の声だった。